その先

いろいろエッセイ
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 ヨガをやるために毎朝のように街へと向かうわたし。駅、電車、道。そこでたくさんの人を見て、たくさんの人とすれ違う。流行こそあれど、みんな違ってみんな違う味を出している。同じ人などいなくてみんなそれぞれユニークな存在。そして、彼らはまたそれぞれの歴史を背負っていて、今こうしてここにいる。その、そんなの当たり前だろと思うことは少し気を抜くと見えなくなってしまう。
 気が付くとわたしもご多分に漏れず、自分が自分がになっている。自分がどうする、自分が何をやりたい、自分がこれが好きだ、自分はこれをやりたくない、などなど。自分のことで頭がいっぱいになってしまっていて、他の人のことなんて忘れてしまう。まぁ、ヨガという営み自体が自分と徹底的に向き合う作業であるがゆえに、自分本位になってしまうのは仕方がないことと言ってしまえば仕方がないのかもしれないけれど。
 あなたもそうかもしれないけれど、結構先のことを考えません? 先を考えて、今やっているこのことはこういう風に役に立って、いわゆる自分のキャリア形成においてこういう意味を持つようになるだろうからこれをやる、みたいな。
 でも、そう考えるとわたしが習っているヨガは本当に無駄だということになる。だって、将来ヨガの先生になるつもりとかないのだから。将来ヨガで食っていこうとか、そんな考えは微塵もないのだから。
 将来、未来、先のこと。そんなことを言われてもほとんど予想できないし、どうなっているかなんて分からない。というか、そもそもどうなっていたところでそれだけのことでしかない。未来のわたしはビッグになっているのかもしれない。何かで成功することができて有名人とか大物になっているのかもしれない。でも、それが何なのさ? それが一体何だというわけ? それは結果でしかないでしょう? 結果が成功しているか、それとも失敗しているか、あるいは現状維持に終わっているかなんて物事の本質ではない。本質は、一番大切なことは何をして生きているかということなのだと思う。毎日の24時間、そしてそれが1年だと365日、何をしているのか。何をして生きているのか。シンプルにそのことだけだと思う。
 と偉そうなことを書きました。無職のわたしにこんなことを言う資格はないのかもしれない。でも、無職であろうとなかろうと生きている限り、1日はやって来る。どんなに明日など来てほしくないと思ってもやって来る。そして、言い方を変えればその時間を過ごさなければならない。何かをしなければならない。何もしないとしても、その何もしないということをやらなければならないのは事実で人間は行為からは自由になれない。何かをする。何かをしている。生きている限り。
 わたしのやっていることなんてどうでもいいことと言ってしまえばどうでもいいことで、それをやるかやらないかで誰かに大きな影響を与えているわけではないし、わたしがそれをやらないことによって誰かが困ったりするわけでもない。
 意味、そして価値。そのことを突き詰めて考えていくと、人類の営みというものにどういう意味や価値があるのだろうということに突き当たる。そして、その長い長い人類の歴史においてわたしの日々の営みはどういう意味を持っていてどういう価値があるのか。なんて、人類の歴史の中で自分の立ち位置を見定めなくても、そもそもそれには何の意味もなく価値もないというのが真相なのかもしれない。人は自分のやっていることが無意味で無価値だということを認めたがらないもので、それを認めた途端、急に気落ちしてくるものだと思う。
 その先の先の先のもっと先。とにかくずーっと先の未来。その頃にはこの宇宙には人がいなくなっているかもしれない。みんな滅んでしまっていて人類は既に絶滅してしまっている。そんなシナリオも考えられる。
 そういう視点に立てば、大抵のことなんてチンケなことで、自分が悩んでいることなんてバカバカしくなってくる。今朝の新聞の記事で久しぶりにムカつく感じがしたのがあったのだけれど、「俺が上でお前は下だろ」みたいなそんな上から目線で相手を見下すような感じの人はきっと自分がこの長い長い宇宙の何百億年の歴史の中でたった数十年、もって100年くらいしか生きることができないということなど考えたことさえないのだと思う。
 わたしは今、40代だからあと40年もすれば80代となり、おじいさんになっている。事故死や突然死や何か重い病気などにかからなければおそらく80歳くらいまでは生きることだろう。そう考えると、今やれることはやった方がいい。ヨガの師匠も「インドへ行きたいと思うなら早く行った方がいい」とわたしを含めて生徒さんたちにに力説している。その言葉は人生が有限だということも含め、人は年を取ることによって確実に老いていくという事実をもしっかりと見ているからなのだと思う。
 けれども、わたしはもうほとんどこの現世に対して思い残すことがない。まぁ、いろいろまだやりたいことがあることにはあるけれど、それをやったところで「だから何?」みたいな感じでしかない。わたしがもしも急に体調不良になり、検査をしてみたらステージ4のがんで手遅れです(あるいはその手前くらいまで進行しているとか)、みたいなことになったら何をやろうとするのかな? きっとわたしは何かに取り憑かれたかのように女の子と遊ぶことでしょう。性的に不能でなければひたすらやりまくることでしょう。って、「何て品のない人なんでしょう。もっとマシな死に際にするつもりはないの? 見苦しいよ。あなたの程度が知れているよ」。何とでも言ってほしい。それがわたしの本当の姿なのだろうから。近いうちにあなたは死にますよ、となった時にこそ人間の本当の姿が現れる。醜い部分も含めてすべてが表に出てくるのだ。
 かと思いきや、意外なことに静かにひたすら瞑想をするのかもしれない(さっきとは真逆だな)。人生の最後の最後でひたすら瞑想をして自分自身と静かに向き合う。そして、静かに静かにほとんど言葉を発することもなく、もちろん「死にたくねーよ」などと取り乱すこともなく静かにこの世を去っていく。
 と、ふとある一人の女性の顔が浮かぶ。このタイミングで浮かぶのはやっぱりわたしはその人のことが好きなのだろうか。その人は悪い人ではないのだけれど、お金が割合好きな感じで、言うことはことごとく残念な感じで、ハイクラス志向で、この世的なものに重きを置くタイプの人。どう考えてもわたしと価値観が合わないし、ましてや一緒に人生を歩んでいこうなんて言える相手でもないし、それは無理だろうなと思う人。でも、なぜなんだろう? そのわたしにとって明らかに圏外とでも言うべきその女性のことが思い浮かぶのだ。わたしは多分、自分の死が近付いてきて長くは生きられないことが分かったら、その人に二言三言の短い手紙を書くのかもしれない。あのすごく残念な感じのする人に。そして、この世を去っていく。
 先の先。わたしが死ぬ時に残していく辞世の句。
「もっとやりたかった」。
 いやはや、それかよとも思うけれど、意外とそれかも。品がない。それ言わなくてもいいことでしょ。そうかもしれない。でも、わたしはそういう人間なんで。まだまだ修行が足りないのは十分、分かっている。だからそのことのためにもヨガをやっているのだと思う。平安は訪れるのか?(だいぶ訪れてはいる)修行だ、修行。

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