今日、時計屋さんへ行った。電池が切れて動かなくなった腕時計があったから電池交換をしてもらいに行ったのだ(以下、「腕時計」ではなく「時計」の方がしっくり来るからそのように表記)。
持って行った時計は二つ。母の時計、そしてもう一つがわたしの祖父の時計。
母が何ヶ月も時計の電池交換をしていなかったのはともかくとして(まぁ、行くのが面倒だったようで)、この祖父、おじいさんの時計はかなりの年代物。
今は亡き祖父のこの時計をネットで調べてみたら、何でも1970年代の物だということが分かった。そして、この時計を祖父はいつもしていた。思い出してみても、わたしは祖父がこの時計をしている所しか見たことがない。いつもこの時計で、この時計が祖父の一部となっているような、そんな感じさえしていたくらいだった。もしも、時計がネットで調べた通りの物で、その70年頃に祖父が買ってそれから愛用していたのだとしたら、わたしが生まれるよりも前からしていたことになる。
また、この時計は当時5万円くらいする、なかなかいい物だったということも調べて分かった(母が言うには、50年くらい前の5万円は今の7~8万円かそれ以上に相当するらしい)。こ、これは売れば相当のお宝でがっぽりなのでは、とわたしは思って、祖父の思い出の品だというのに現在いくらくらいで取引されているかということも調べた。すると、4500円。えっ? 5000円くらいにしかならないの? いや、当時5万円はしたのだからそれ以上いってもよくない? このことを今日、電池交換をしてくれた時計屋さんのご主人に話すと「これは電池式だからそれくらいの値段なのだろう」ということだった。電池式ではなくてゼンマイ式だったら集めている人もいるからすごく高値がつく、と。姑息な野望はあっけなくしぼんでしまった。でも、逆にこれで良かったと思っている。
なんて、祖父の時計の市場価値について語りたいわけではない。そうではなくて、もっと大切なことを語りたいのだ。
祖父が施設に入るときに着脱がしやすいようにと、また高い時計だと失くすということもあって、その時にこの時計は祖父の腕から離れた。そして、それからずっと家に置いたままになっていた。わたし自身、祖父が40年近くも使っていた時計であったのに、まったくこの時計には興味関心がなかった。だから、そこらへんに適当に置いていたままだったし、時計の存在さえ完全に忘れてしまっていた。
その時計はわたしが最近見つけた時には止まっていた。電池が切れていて動かなくなっていた。で、それを時計屋さんに今日持って行ったという次第だった。
はい、電池交換が終わりました。時計屋さんにお金を払いました。時計を受け取りました。店を出ました。そして、わたしはその時計を腕にしてみました。
すると不思議なことが起こった。この時計には不思議な力があるのかもしれない、と思うような出来事が。と言いつつも何か奇跡的なことが起こったわけではない。けれど、この時計を腕にして、それを眺めたら祖父から「しっかり生きろ」と言われているような気がしてきたのだ。それも時計をしたらすぐに、だ。そして、こりゃあ不真面目に生きられないなと思ったのだった。
祖父は真面目な人だった。真面目も真面目で何せ公務員だった。時計よりも正確に同じ時間に仕事に行き、同じ時間に仕事から帰ってくるものだから、時計の代わりみたいなものでさえあったという話を母から聞いたことがある(この祖父はわたしにとって母方の祖父であって、わたしの母の父親にあたる)。さらには昔の人らしく、自分が家長であるということをすごく意識していた。そして、何よりも家族を大切にする人だった。わたしが行き場所がなくて困っていたら「うちへ来ればいい」と言ってもう既に母も離婚して戻ってきていたにも関わらず、祖父母の家に迎え入れてくれた(この家は2人で住むために祖父母が買ったもので3人や4人で住むには狭いのに)。そういうわけでわたしは祖父母と数年間は一緒に暮らしているわけで恩人だと言っていい。
そんな祖父が残していったこの時計。見るとすごく祖父らしいなって思う。とにかくカッチリしている。文字盤には数字がなくて本当にシンプルそのもの。遊び心なんて微塵もない。ただただカッチリと真面目にある。
この形見の時計、わたしはこれから使いたいなって思ってる。使っていきたいなって。
わたしがこの時計をしているのを見ると母は祖父(母にとっては父)を思い出すようだ。それもそのはずで祖父の代名詞がこの時計だったと言ってもおかしくない。何十年もひたすら毎日その時計をしていたのだから、そう思わない方がどうかしているくらいだ。
物。この場合、祖父の時計には何十年も身に付けたことによって、祖父のエネルギーが時計の中に入っているのかもしれない。そのエネルギーがきっとわたしに働いたのだろう。
実は、わたしは最近ちょっと自堕落な感じになっていた。毎朝、玄米ご飯をお釜で炊いて、味噌汁を作るというルーティンは続けていたのだけれど、骨折もまだスッキリとは良くならなくてヨガもお休みしているものだから、気が緩んでしまってそれ以外の時間、何時間もネットをやってしまっていた。重度ではないものの、ネット依存だと言っていいだろう。それもアダルティーなやつをひたすら見ている感じで良くないと思いつつもやめられないでいた。そんなわたしを今は亡き祖父は心配してくれていて、軌道修正してあげられないものかと思っていたのではないか。ちょっとこれはスピリチュアルな話だということは自分でも分かってはいる。でも、何か祖父がわたしを見守ってくれている。そんな感じがする。そして、祖父によってわたしの行動を明らかに修正してもらっているいるとしか思えない。もちろんいい方向へと。
いや、これは錯覚だ。科学的にはありえないことだし、そんなことが起こるはずがないと思う人もいるだろう。でも、この時計から何かわたしはすごい力を感じている。言うならば、強力なお守りになっているという感じがしてならないのだ。この時計が、いや祖父が守ってくれているような、なんて非科学的ではあるけれど、そのパワーを感じる。
わたしが祖父の形見のこの時計をした時に受け取ったように感じた「しっかり生きろ」というメッセージは「ちゃんと、真面目に、人として道を踏み外さないでやれ」ということなのだと思う。
故人が大切に長年使っていた物を身に付けるということには何かがある。「しっかり生きろ」「しっかりやれ」。祖父が言いそうな言葉だ。性欲に流され翻弄されているダメな孫のわたしに祖父は働きかけれてくれた、とわたしは思うし、そう信じてもいる。
しっかり生きる、か。簡単そうで難しい。時計屋さんが言うにはこの時計はもう使ってある部品が作られていないから修理ができないらしい。まぁ、そうなったらそうなったで部屋に飾らせてもらいますよ。でも、今はまだちゃんと動いているから、そのことは壊れてから考えることにいたしましょう。
おじいちゃん、この時計をわたしが使うこと、喜んでくれているよね?
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。