人生初の骨折と朝の途中下車の旅

いろいろエッセイ
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 骨を折るのって痛いのね。そのことを身にしみるように感じている今日この頃であります。そう、何とわたしは骨折をしたのです。
 先週の土曜日に道場でヨガの練習をしている時に急に痛くなった。その前にもちょっとひねったか、腕を引っ張りすぎた感じがしていて違和感はあった。でも、土曜に急に痛くなった。どうやらその時に折ってしまったらしい。
 骨折とか骨を折ったとか聞くと、何かすごい重傷なやつを想像するかもしれないけれど、わたしのはとても軽いもので不全骨折という骨折で(骨折にもいろいろ種類があるらしい)簡単に言うと、ひびが入っているのです。今回やってしまったのが左の肋骨で、先生曰く「レントゲンでは分からないくらいのわずかなひびです」とのことで、エコーをしてみてそのことが分かったという次第。いやはや、エコーはわずかなひびも分かるのですね。文明の利器の恩恵を受けているわたしなのです。
 そういうわけで毎日のように道場へ行ってやっていたヨガはお休みになり、いつもとは違う生活が始まりましたとさ、という次第。整形外科の先生から2週間は安静にしているように。ヨガや痛みがある運動などはやらないようにと言われたから、まさにドクターストップ。
 で、ヨガの師匠にそのことを連絡したら「練習で怪我を直せ」と言われることもなく(そういうことを言う指導者もいると本には書いてあった)練習を休むことを了承してくれた。さすがにこの状況でも今までと同じように練習しろとか言うのは鬼だよな。少ししかひびが入っていないとはいっても、「骨折です」とドクターから言われた日の朝(つまり、まだ骨折だという診断がなされる前)、練習に行けるかどうかたしかめるために太陽礼拝をやったらなかなか厳しい状況だということが分かった。その太陽礼拝の動きの中でも上半身に体重がかかってくるとなかなかの激痛が走って、この動きをやったら、ここでやめないでやってしまったらヤバイといことを本能的に嗅ぎ取ったのでその時には1回も太陽礼拝ができなかった。やったらきっともっとひどい状態になる。あの時やらなかったのは賢明そのものだったと今ではなおのこと思う。
 でもね、何か落ち込んだりはしなかった。骨にひびが入っているということを医者から言われた時、「あぁ、やっぱりそうか」と納得したくらいだったから。そして、急に変な高揚感が出てきてやたらとテンションが上がってくるものだから不思議なものだよ。ワクワクまではいかないけれど、非日常が訪れたみたいなエキサイティング3歩手前のような。って表現するのが難しいけれど、ともかくそんな感じだった。
 ちなみにわたしは40年あまり生きてきたわけだけれど、骨折は今回が初めてだった。人生初の骨折。物事や状況はどうなっていくか分からない。何が起こるか分からないから面白いんだなとつくづく思った。ちょっと呑気すぎるかな? いやいや、これくらいでいいんじゃないの、と自分で自分を肯定してますけれど。
 もしかしたらだけれど、わたしは骨粗鬆症なのかもしれない。だって乳製品ほとんど何も食べたり飲んだりしていないから。それで栄養が足りなくて骨がもろくなっているのかも。あるいはタンパク質の摂りすぎとか、それくらいのことは考えられる。
 骨にひびが入ったという話で思い出したのは、今は亡き祖父が腰が痛いからと腰痛体操をして骨折したことがあって、その時は数日寝込んでいたよなぁ。その祖父も骨粗鬆症だった。
 と、骨折についてここまでネガティブな話をしてきた。デメリットについて延々と語ってたわけで、メリットなんてあるのと思う人もいるかもしれない。でも、たしかにメリットもある。それは心配してもらえてやたらと大切に扱ってもらえること。
 わたしの母も何年か前に骨折したことがあった。その時に病院へ行ったらしいのだけれど、その整形外科の看護師さんが母が骨折だと分かる前には、「どうせまたちょっと痛いとかその程度なんでしょう」くらいの対応だったのに、ドクターが骨折と診断して、そういうことになってからは急にていねいに「大変ですね」と心配する保護モードに切り替わったという話をわたしにしてくれた。
 それだけ骨折という状態は非日常で非常事態というのが世間一般の認識のようで、わたしの今回の骨折についていえばその間にギャップがある。まぁ、骨折でも軽傷なのです。しかし、軽傷でありながらも骨にやっぱりひびは入っているので、そこに力がかかるとなかなか痛い。10kgとかそれ以上の荷物を持ち上げるのは試してはいないけれど、やめた方が良さそうだ。
 今、一番痛いのがベッドから起きあがる時で、雑に起きようとしたり、不用意にそのひびが入っているところに力がかかったりするとかなり痛い。その時、自分が骨折しているという現実というか事実を思い出す(日常動作ではほとんど痛みがない)。
 さて、毎日ヨガをやっていた時間に何をやろうかと考えたわたしは歩くことにした。歩く分には特にほとんど痛くはないから支障はない。そういうわけで今日歩いた。しかも行ったことのない場所を。こう書くとどこか遠くへ出掛けたようだけれど(京都とか東京とかそれよりも遠くの場所へと)、ヨガの道場がある街へと向かう列車にいつものように乗り、途中の駅で降りて初めての場所をぶらぶらとお散歩する。途中下車の旅というやつですよ。しかも近場のね。これってすごく贅沢なことをしてるなぁって思う。土地勘のない場所を地図もスマホも持たずにただただ道路の標識と直感(とあと最悪困ったら人に聞く)に従って歩く。目的地はない。ただし、それがなさすぎても帰れなくなってしまうからぼんやりとしたこうしようかなぁというくらいの目途は立てつつ歩いていく。
 この途中下車の旅をやっているとものすごく脳味噌が活性化されてくる。歩いているからというのはもちろんのこととして、それ以上に初めて行く場所と初めて会う人たちの刺激がすごい。そして、最初はすごく不安だったのがそれにも慣れてくるのか楽しめるようになってくる。今いる所がどこなのか分からない。分からない。上等でしょ。だって初めて来ているんだからさ、と度胸も少しずつ座ってくる。見知らぬ風景がひたすら続くともう不安とか言っていられなくなるから適応してくるようだ。
 実際、今の時代は本当に便利で、人通りの多い所に出れば大抵コンビニはあってトイレには困らないし、バス停もある程度あちこちにあるから歩くのがきつくなってきたら駅へ向かうバスに乗ればいい。これはド田舎や山や森の中では使えない技だとは思うけれど、幸いそこまで自然豊かなところを歩くわけではないから十分いける。もしも、こういうコンビニがなく、バスも通っていないほどの田舎や自然の中だったら、そこらへんで用を足せばいい。大をしてもいいのかは分からない。でも、小くらいだったら問題ないだろう。
「かわいい子には旅をさせよ」という言葉は本当その通りだなぁって思う。旅は人を成長させるというのは嘘ではなくて、まだ途中下車の旅は始めたばかりだけれど、すごくプラスになっているのを感じる。つまり、旅というものは、それも地図やナビを持たないでやる旅はその人を鍛えるのだろう。咄嗟の状況判断力、度胸、前向きな姿勢などが育まれるのではないか。そんなことを思ったりもした。世界の広さと自分の生活圏の狭さを肌で感じて了解できる上に、いろんな人がいてみんなそれなりに頑張っているんだなということも見えてくる。わたしを含めた平凡で突出しているわけでもない人たちがこの社会の中で生きていて、自分のできる範囲で貢献して支えている。今日も朝に起きて、それから仕事へ行き、それなりの仕事をして帰ってきて、また寝て明日の仕事に備えてチャージする。普通の仕事をしてそれなりに普通に稼いでいるトップランナーではない人たちが圧倒的多数であって、その中でトップに君臨して活躍している人はほんのわずか。だから、別にすごくなくてもいいし、自分なりに自分のやれることを自分のペースでやれていればいい。
 2週間か。長いようで短くて、短いようで長い。それはともかくぼちぼちやっていきたい。自分を見つめ直せたらと思う。そして、ヨガの師匠から「これをやるといいよ」と怪我をしていてもできるヨガのポーズ以外のことも教えてもらったのでやっていきたい。
 今日はよく歩いたせいかもう眠い。朝散歩もすごく効くな。いい感じ。

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