『こころの元気+ 2024年10月号』「こんなときどうする? 私の打ち手 第29回」に掲載されました。その他思うことと掲載されなかった打ち手もご紹介!!

いろいろエッセイ精神障害
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 この文章に雑誌の『こころの元気+』経由でたどり着いてくれたあなたへ。まずははじめまして。まぁ、自己紹介はいいとして(わたしに興味がある方は「自己紹介」を読んでください)、今回雑誌に載せてもらえたこの文章をめぐる、いわば四方山話をしたいと思う。しばしお付き合いを。

 まず、打ち手の一つ目。消えてしまいたい時どうするか、ということで、本当これは長年考えてきた、というよりもわたしの人生の課題でありました。本当、課題そのもの。
 ハムレットに「生か死か、それが問題だ」というセリフがあると思うけれど、まさにわたしの20代、それも特に中頃あたりは毎日が綱渡りだった。何度か未遂もしたし、それなりにサバイバルをしてきたと思う。
 そんな苦しい中、いつも傍らにあったのはデビット・D・バーンズ『いやな気分よ、さようなら』という本でこの本がなかったら今頃とっくに死んでいたわけだから、わたしにとっては命の恩人のような本だった。

 わたしが今回、雑誌に寄稿した文章の、働いていない人が死ななければならないとしたら一体どれだけの人が死ななければならないことになるのか、という視点はもっと世間で大きく語られていいと思う。わたしもそうだったけれど、苦しい時というのは大抵まわりが見えなくなっていて、自分が死ぬか、それとも生きるかというように、自分のことだけで頭がいっぱいになってしまっている。まるで自分一人だけが死ななければならないかのようにさえ思える。でも、バーンズ先生が指摘するようにちょっと冷静に考えてみるなら、働いていない人は何も自分だけではないのであって、他にもたくさんいる。いや、日本に限ってみて、全人口の1%だけとしても120万人になるではないか。そんなおびただしい数の人たちに「死んでください」と死刑宣告してしまっていいのか? それにその120万人の人は本当に死ななければならない人たちなのだろうか?
 そう考えていくと、堅苦しい言葉を使うならそれが不合理だということが分かる。たしかに重大な犯罪をして人の命を何人も奪ってしまったり、女性に性的な暴行を加えてしまったり、などのことを理由にして自分は死ななければならないと思うのであれば理由としてはそれなりに納得できる。しかし、考えてみれば、仮に社会のお荷物になっていたとしても、そのことが死ななければならないほどの理由となるのかと言えばそんなことはないはずで、社会に対して貢献できていなかったり、その程度が少ないように思えたとしても、だからと言ってそこから死刑になる必要があるという結論へは結びつかないとわたしは思う。
 わたしたち精神障害者は、社会に貢献できていなくて、ただ一方的に障害年金などで支えて養ってもらっているだけで本当に申し訳ない存在でしかない、と自分たちのことを卑下して否定しがちだ。けれども、社会貢献ならちゃんとしてますよ。わたしがお世話になっている精神保健福祉士の方も言っていたのだけれど、消費税納めてますよね? 何か物を買ったり、サービスを受けるためにお金を支払う時に8%(食料品の軽減税率)か10%を加えて支払っていますよね? たしかに微々たるものかもしれなくて、本当はたくさん稼いで所得税とかいろいろ払えれば払えた方がいいかもしれないけれど、これだって立派な社会貢献で、社会の一員としての責務を果たしている。
 そして、生きるためには衣食住をして生活していかなければならないから、衣食住に必要な物やサービスなどを買っている(それからあとちょっとしたささやかな娯楽とかいろいろ)。つまり、しっかりと消費活動をしていて、そのお金は仕事をして働いている人たちのもとへと流れている。そして、当然のことながらそのお金は役に立っている。
 そういう風に見ていくと、本当の意味で社会貢献をしていないのは死んでしまっていてもうこの世にいない人ではないかなって思うのだけれど、どうだろう? たくさんの仕事やお金などを残して人生を終えた人もいることはいるものの、それは例外として多くの人、それも普通の人は死んだら税金を納めることはできないし、もう死んでいるのだから何かを買ったりして消費することもできない。
 言ってみれば、生きているだけで消費税などの税金は納めていて、生きるためにいろいろ買っている。それだけで社会貢献をしていると言えばしている。たくさん働いてたくさん税金を納めて、みんなにたくさんの利益をもたらしている人と比べれば無職で仕事のない人の貢献している程度は低いのかもしれない。けれど、その人なりにできる範囲で社会に貢献できればいいのであって、みんながみんなバリバリ働かなければならないというわけではない。
 次に打ち手の二つ目。主治医とのつきあい方。この文章を読んでくださった方は「何て星はドライな人なんだ」と思ったかもしれない(汗)。割り切りすぎだろって。
 かく言うわたしも初めの頃は医者に完璧なものを求めていたところがあって、その度に何かがっくりとまではいかないものの、軽い失望のようなものさえ感じていたものです(昔話)。全人的な心理的なケアや癒しを求めていた時期があったことを今でも覚えている。
 けれども、精神科医は忙しい。3分とか5分くらいしか話をしてくれない、という患者の訴えはもっともだとしても、そうしていることにはそれなりの理由がある。一人あたりの診察を5分としてもそれが50人になるとどうなるか? 250分にもなり、4時間近くにもなる。さらにはこれを10分、15分と一人当たりの時間を延ばしていくと、どんどんかかる時間は増えていって倍増していく。
 診察に癒しや心理的なケアを盛り込むととてもではないけれど、時間内に予約している患者すべてを診ることはできない。そういうわけで今のようになっている。
「薬を出してくれる人」。言ってしまえばその一言で終わるものの、これには高度な知識とスキルが必要。いや、薬を出してくれる人ではなくて「ちゃんと」薬を出してくれる人であることをわたしは医者に求めている。さらには、ちゃんと医学的なアドバイスや処置をしてくれること。そういったことがまず何よりも医者として問われることではないかと思う。癒しや心理的なケアができればなお良いかもしれないけれど、それはまた別の違う人に求めた方がいいのではないかと。実際、わたしはそういったものを精神保健福祉士のワーカーさんとか家族とかヨガの先生(癒しというよりはヨガ的な生き方や考え方を教えてもらっている)、あと猫なんかに求めるようにしていて、それなりにうまくいっている。だから、今の主治医は定期的に血液検査もしてくれていて体の大まかなところにも配慮してくれていて、それから何よりも手堅く慎重に医者としての仕事を全うしてくれているからわたしは特に不満がない。役割期待とのズレがないのだ。
 あと今回の雑誌の文章には裏話があって、実は二つの文章を送って、その二つから一つずつの打ち手を合わせて一つの文章にしているという次第。というわけでして、打ち手で雑誌に掲載されなかったものが二つほどあるのです。
 というわけで最後にそれを載せて終わりにします。この二つもいいと思うので、参考にしたい方は参考になさってくださいね。

 わたしの打ち手はいろいろあるのですが、その中でもヨガとお料理と執筆が一番効果的だと感じています。
 まず、ヨガについてはやるとすごくいい空気が自分の中に流れてきます。ゆっくりと呼吸をしながらヨガのポーズを取ると、心も体もリラックスして癒されます。わたしが今、病気はありながらも比較的いい感じでいられているのは、ヨガによるところが大きいです。ヨガにはメンタル調整効果があり、続けていくと浄化されていき、心がすごく安定してきます。現にわたしはヨガを始めてから不調になることが少なくなりました。
 次に、お料理についてはやると脳が活性化されてきて、手先を使って細かいことをやるので、日常生活を送ることが楽になってきます(お料理は作るだけではなくて材料の買い出しから始まります)。わたしはまだお料理歴数年のビギナーなので本を見ながら作るのですが、そうした効果はもちろんのこと、出来上がったお料理を食べる時に最高に幸せを感じます。さらには不摂生な食生活からも脱することができて恩恵はたくさんあります。そして、お料理を作ると家族が喜んでくれます。「おいしい、おいしい」と言って喜んでくれます。それもすごくポジティブな気持ちをもたらしてくれていい空気が流れます。わたしはお料理をするようになって健康的になり、家の中の雰囲気も良くなってきたように感じています。
 執筆についてはわたしはブログをやっているのですが、書くことによってすごく洞察力がついて人間的にも大きく成長してこれたと思っています。書いているとすごく鍛えられます。何よりも自分自身を冷静に見つめることができるようになってきますし、書くことによって癒されます。また、自分にとっての生きる上での信条や信念などの理屈があって、それがはっきりしているとブレることが少なくなってきます。そのためには自分自身の考えを整理することが必要になってきます。書く作業は自分をはっきりとさせてくれて、それがいい感じの自分へとつながっていきます。執筆によってわたし自身、成長できて、自分の意見も持てるようになりました。

 わたしの打ち手は目を閉じて自分の心の声を聴くことです。心の声とか、少々スピリチュアルっぽくて抵抗を感じる人もいるかもしれませんが、自分の状態に気付くにはこれが一番かと思います。
 目を閉じてただただ自分の内側からの声を聴く。そうすると必ず何かが聴こえてきます。無理が続いている時には「休みたいよ。休ませてくれよ」という声が聴こえるかもしれませんし、怒りに支配されている時には「絶対許せない」と怒っているかもしれませんし、悲しい時には「何であんなことを言われなきゃならないの」と心は泣いているかもしれません。
 この心の声を聴くことをしっかりとやっていけば、無理をし過ぎて体調を崩すこともなくなりますし、自分に正直に心地良く毎日を過ごしていけるようになります。わたしの統合失調症にしても毎日夜中までパソコンにかかりっきりで昼夜逆転していて、自分の心の声を聴くどころか無視していました。そして、それが積もりに積もっていった結果、発病したのではないかと思っています。
 この打ち手をするようになってからというもの、今でも多少はありますが、それでも無理をし過ぎることがほぼなくなりました。そして、心地良く過ごせる時間が長くなってきたように感じています。

 長い記事にもかかわらず、読了ありがとうございました。今日も良い一日をお過ごしください。ではでは。

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