グラビアのお姉さんは何を求めているの?

いろいろエッセイ
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 わたしは時々、本屋に立ち寄る。そして、色々な本を立ち読みして良さそうな本を買って帰ったり、何も買わなかったりする。
 古き良き時代を懐古するわけではないけれど、本屋からエロ本がなくなって久しい。コンビニからなくなって、その前後だったのかどうだったのか気が付いたら本屋からもなくなっていた。かろうじて残っているのがおじさん向けの週刊誌くらいで、アダルトな写真を本屋で眺めるにはそれくらいしかなくなっていた。
 そんなわけで(どんなわけで?)、本屋で週刊誌とか女の子の水着のグラビアの本などを物色していたわたしだった。が、もう日曜の朝の10時だというのに人がほとんどいない。みんな日曜日は昼まで寝ていたいのか、それとも本なんて買わなくてもネットで検索すれば全部済ませることができてしまうから来ないだけなのか。ともかく、ガラッガラで人がポツポツとしかいない店内で煩悩の赴くままにきれいな女の人たちの写真を堪能していた。
 と、そこを一人の神経質そうなおばさんが通った。何か明らかに軽蔑されているようなそんな視線を投げかけてくる。そりゃそうだよな。今時、こういう本を立ち読みしている人なんてあんまりいないだろうしね。
 そんな感じで悟るどころか煩悩にまみれているわたしではあるものの、汚れていながらも前よりは少しはきれいになってきたのか、そういったグラビアを見ている時、ふと我に返る瞬間があってこんなことを思ったりする。「このお姉さんは何を求めていて、何がほしくて、どこを目指しているのだろう」と。
 生まれつき人前に出て見られて注目されることが好きでそのことに異常な快感を覚えるという人もいるだろうとは思う。でも、果たして自分が女性に生まれたとして何万人とか何十万人もの不特定多数と言ってもいいような男たちに自分の裸を見せたいと思うだろうか? あるいは裸までいかなくても自分の水着姿や下着姿をさらしたいと思うだろうか?
 彼女たちは何を求めているのだろう? 人気者になること。人から認められること。自分が価値のある人間だと証明すること。お金。名声。そして、それらを求めていった先に待っているバラ色の人生(スポーツ選手や実業家などのお金持ちと結婚して莫大な富を手に入れるなど)。少なくともお金は手に入れたいと思っているはず。たくさんのお金を手に入れたいと多分思っているし、そのためにもこういったリスクのある仕事をしているのだろう。
 人気者になってみんなから愛されて必要とされればたくさんのお金も得ることができて幸せが待っている。そんなところではないだろうか。お金を得て自分の欲しい物を次から次に手に入れる。それが幸せ。それが幸せだと思っているからそのような特化した生き方をしようとする。
 で、ふと今思ったのが彼女たちの心は満たされていないのではないかということで、今朝見たテレビで男性アイドルが「アイドルをやっていないと死んじゃう」と笑いながらまるで冗談でも言うような感じで話していたのだけれど、わたしはその一言にすべてが詰まっているのではないかと感じたし、ギャグとして笑えなかった。お金を手に入れることが目的でありながらも、承認されること、必要とされることで生きている。だから、その承認がゼロになったらそれは生きていけない状態となってしまう。
 グラビアのお姉さんもどこか心が満たされていないのだろう。満たされていたらあえて人気者になろうとか思うはずがない。
 本当に満たされている人は何かを一生懸命やったりしてそのことに依存したりはしない。ただ自分が今ここにあることに満足して、何も求めようとはしないし、その必要も感じない。
 だとしたらわたしにはグラビアのお姉さんをとやかく言う資格などない。ヨガや健康的な生活というものに依存してそれらを求めてしまっているのだから同じようなものだ。
 グラビアのお姉さんの目的地もわたしのそれも要は幸せになりたいということであって、特に大きく違ってはいない。ただ、わたしはお金や名声ではおそらく幸せになれないだろうと気付いてしまっているからその道を求めていないだけのこと。幸せになりたいのならほどほどに得て、ほどほどのところで足るを知ることではないかと思う。あまりにも欠乏してしまっても苦しいし、かと言ってそれがあまりにもたくさんありすぎてもまた別の問題が生じるからだ。
 一昔前に一世を風靡したグラビアのお姉さん、さらには風靡できなくて少し活動しただけで表舞台から去っていった人たちは今どうしているのだろうか。元気にやっているのだろうか。元気にやってくれているといいのだけれどな。わたしが年齢的におじさんになっているように、彼女たちもおばさんになっていることだけは間違いない。そして、昔自分の写真が載った雑誌などを大切に大切にしていて、時折昔のことを思い出しては懐かしく思っているのかもしれない。
 太宰治が『人間失格』の終わりのほうで「すべては過ぎ去っていく」といったことを書いていた。そう、すべては過ぎ去っていくのです。そして、さらにはそれに加えて、この過ぎ去っていく現実や世界などが幻でしかなくて意味もないのかもしれない。それすらも見据えた時、果たして本当の幸福はどこにあるのか? メーテルリンクの『青い鳥』のようにそれはたった今、この瞬間にただ青く幸福としてあるのかもしれない。捕まえようとするとそれは青くあること、幸せではなくなってしまうわけで。だとしたらこれから先の未来に幸福を求めていくのではなく、今こうしてある一瞬一瞬を味わって感じることこそが幸福ではないだろうか。
 お金を手に入れれば、名誉や名声や社会的地位や権力を手に入れれば、きっと幸せになれると人は躍起になってそれを手に入れようとする。けれど、幸せはそのこと自体にはなくて、それを「幸せだなぁ」と思えるかどうか。つまり、結局、幸せは主観的なものでしかなくて、足るを知ることができるかどうか。何を手に入れても、どんなに人がうらやむようないいものを手に入れることができてもそれに幸せを感じられなければ幸福ではない。
 最近のわたしはヨガの道場からの帰り道に「もしかしたらこれが幸せなのかもしれない」とよく思う。そう思うわたしは何者かになれたわけではないし、大金持ちになったわけでも、すごい資格を取ったわけでも、いい学校に入れたわけでも、クリエイティブな高収入の仕事に就けたわけでも、豪邸やフェラーリやタワーマンションやトロフィーワイフを手に入れたわけでもない。でも、時々「これが幸せなのかも」と思える。幸せというのはもしかしたらその程度のものでいいのかもしれない。と言いつつもわたしは凡人なのでそれにも関わらず、資格もいいかなぁ、新しい趣味も面白そう、彼女がいたら、何か仕事をしたらなどとそれに足そうとしてしまう。ついつい高望みしてしまう(ってオイ!)。
 いやいや、何もなくても、本当に何もなくても、もしかしたらただ自分が今ここにいることだけで、生きているだけで幸せなのかもしれない(わたしはそこまでの高尚な境地には到達できていないのだけれど)。
「何もなくても幸せ」という境地はわたしを含めた多くの人にとっては無理でも、その幸せになるために必要な物が少ないのはすごく素敵なことだとわたしは思う。だからこそ、わたしはスーパーで100円のバナナが値引きされて50円になっていて、しかもそれが半分どころかほとんど腐っていなかったと言って嬉しそうに喜べるような人に魅力を感じるのだろう。それとは反対に「お前バカだろ。そんなこと言ってる暇があったら働いてたくさん稼いで高級ないいバナナを買えよ」という人とはうまくやっていけそうもないし、そもそもの価値観が合わない。
 次から次に新しい人が出ては消えていくグラビアの世界。彼女たちにわたしがさきのバナナの話をしてもおそらく通じないと思う。このことに気付いてくれたらなぁ。ってよけいなお節介、お節介だということは分かっております。わたしはこう思うというただそれだけのことです。妄言多謝。

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