必要とされることもされないことも単なる事実でしかない

インド哲学ヨガ
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 何かこの世の中ではまるで必要とされることが価値があって善であり有益、という空気が流れていて、それに違和感を覚えたのでちょっと書きたい。
 人は、というか、普通にみんながやっていることとして、事実に価値判断や善悪を加えている。本当は事実は事実でしかなくて、それ以上でもそれ以下でもないのに、そこにいろいろなそうしたものをくっつける。
 だから、必要とされることが素晴らしいとか価値があるという常識的な考えが生まれる。となると、同時に必要とされないことは素晴らしくはなくて価値がないということに自動的になる。
 最近のわたしはいろいろな物事を突き放して見るような感じになってきていて、いろいろなことが「それだけのこと」のようにしか見えない感じになってきている。
 そういうわけだから、たくさんの人に必要とされていて人類の営みに貢献できている人もそうではない人も単にそれが事実としてあるだけであって、優劣も貴賤も価値の高低もないように見えるのだ。もちろん、そうは言ってもわたしは普通の人だから価値判断はしているし、善悪も気が付くと物事に絡めてはいる。好き嫌いだってもちろんあるし、気に食わないと思う人たちだっている。でも、何かそういったいろいろな物事がただそれがそうあるだけじゃないんですか、という視点も持つようになってきた。
 誰々さんのブログは月に5万くらいアクセスがあるそうですよ。一方、誰々さんは100くらいだそうですよ。アクセス数が5万と100。ただそれが事実としてあるだけで、そこに価値があるとかないとか、どっちが優れているとかいないとか、そういったものはない。ただブログのアクセス数が5万の人と100の人がいる。それだけのことで、ただ事実としてそれがある。
 でも、人はそこにゴチャゴチャいろいろなものを絡めて考えたがる。それこそが苦悩の原因なのだとわたしは思う。金持ちと貧乏人がいる。オシャレな人とそうではない人がいる。頭のいい人と悪い人がいる。ルックスのいい人とそうではない人がいる。本来はただそれだけのことで、そういった属性を持つ人がそのようにいて、そのようにあるだけ。
 こう考えたら、というかこれはインドの聖典のバガヴァッド・ギーターに書いてあったことですごく透徹した眼差しで世界を見ている。思い煩っていたなと気付き始めた今日この頃。ただそれがある。そのようにある。それだけのこと。以上。

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