オリンピック? 終わったみたいだけど、やっぱりどうでもよかったな

いろいろエッセイヨガ
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 オリンピックが終わったらしい。そのことを新聞の1面を見て知った。
 世間様がオリンピックに熱狂している中、わたしは本当に無関心だった。でも、これはこれでいいと思っているし、何も後悔などはしていない。
 オリンピックに熱狂する自由がある。だとしたらそれに熱狂せず、どうでもいいと思ってもいい自由もある。何人(なんぴと)もそれを人に強制することはできない。それを強制するとしたらおかしな話になるわけで、自由ではなくて統制されることになる。
 まずもってして、なぜ国と国で戦うのかが分からない。競い合うのかが分からない。まだ国など関係なく、そういったくくりなどなしに純粋に誰が一番優れているのかを決めるのであればまだ分かる。別に国と国で戦う必要なんてないでしょ? 戦争でもあるまいし。
 と、国別対抗ではなくチャンピオンを決めることにわたしが譲って少しは理解を示したかのように見えたかもしれない。でも、それでも一番って意味あるのかな、って思う。何で一番を決めたがるのか理解に苦しむんだ。別にいいじゃん。誰が1番だろうがビリだろうが。そういうことよりもその人がその人なりに成長していくことの方が価値があると思う。たとえそれがどんなに鈍臭くて、周りから見て「お前何やってるの?」みたいな低いレベルであっても別にかまわないと思う。そういった一人一人の精一杯の努力だったり、頑張りなんかが一番でないから意味がないとか、ある所まで達していないから話にならないとか言ってしまうのは本当、人として冷たい。
 オリンピックをやるよりもみんなで大規模にヨガとか瞑想、お祈りなどをして世界に静けさをもたらした方がどれだけいいことかとわたしは心の底から思う。なぜなら世界が邪悪に見えて仕方がないからだ。欲望がどこまでもどこまでも際限なく肥大していて収拾がつかなくなっている。だからこそ、それを鎮めるべきであって、それこそが本当の意味での平和の祭典なんじゃないのとわたしは言いたい。誰が一番とかどの国が一番メダルを穫ったとか、そういうことを言っていても仕方がないし意味がない。
 そんなわけで本当、オリンピックはわたしにとってどうでもよかった。世間一般の人たちがヨガや瞑想やインド哲学なんかをどうでもいいと思っているのと同じように。

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