「それだけのこと」という言葉をわたしが最近よく使う理由

いろいろエッセイインド哲学
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 ふと、わたしが何かの価値を否定する時に「それだけのこと」という言葉をよく使っていることに気付いた。
 そう、わたし、よく使ってるよね。この言葉。
 この言葉、すごく強烈だなと思う。どんなに人からうらやましがられることをしたり、人として素晴らしいことをしたり、懸命に懸命に何かを努力して成し遂げても、この「それだけのこと」という言葉が放たれると急に興ざめしたような感じになるから不思議だ。
 要するに、すごく冷めているのだろう。それだけと言いのけてしまうのだから冷めている。
 難関大学に合格しても、一流企業に入れても、彼女ができても、結婚できても、子どもが生まれても、豊かな老後を送れても、そして最終的にその人が死んでも、何をやってもどうなってもこの一言が台無しにしてしまう。
 では逆に「それだけのこと」ではないことはあるのだろうか? それだけとは言い切れないようなそんな素晴らしいことが果たしてあるのか? きっとないのだと思う。何をやってもそれだけでしかなくて、それだけのことでしかない。
 何をやっても、どうなろうとも、それは永続することはなくて、花火のように終わってしまう。だとしたら終わりがなくて永続するものならいいのかもしれない。けれど、それすらも「それだけのこと」と言い放って否定することはできる。天国に入ることができても、悟りを得て永遠の静寂を手に入れても「それだけのこと」と切り捨てることはできる。
 この言葉を封じ込めるには、始まりも終わりもないものを持ち出すしかない。しかもそれが至福そのものである必要がある。それは無なのか、空なのか、わたしには分からない。けれど、きっと人が本当の意味で最後に求めるのはこういったものなのだと思う。お金でも名誉でも地位でも女でも権力でもなく、永遠に続く安らぎ。決して乱されることも途切れることも終わることもない至福。空間も時間も超越している永遠。そこまで話が進んだらそれを「それだけのこと」と言うのは難しくなる。一応、それすらも否定することはできる。しかし、もうその境地というか状態に対してはいかなる批判や罵詈雑言も意味をなさないはず。
 それだけのことではないことをわたしは求めているような気がする。だからこそ、わたしは「それだけのこと」という言葉をよく使うのだと思う。キリスト教とは異なれど永遠を求めている。最後はそこなんだろうな、きっと。

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