人生初の花火大会を終えて

いろいろエッセイインド哲学
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 40年生きてきたわたしが一度も参加したことがなかったもの。それは花火大会。だから、先日の初参戦はとても思い出深いものとしてわたしの記憶に刻まれている。
 街にあるヨガの道場の帰りにふとデパートに寄りたくなった。デパートに寄って浴衣を見てみたい。それがそもそもの発端だった。浴衣を見てみたい。その思いには同時に夏祭りや花火大会に行ってみようかなというかすかな気持ちも含まれていた。
 デパートに夏だということで特設売場があって、そこでは浴衣を扱っていた。が、浴衣は高価なものなのだ。そこにあった浴衣一式を買い揃えると全部で2万円ちょっといってしまう。会話のやり取りからわたしがお金を持っていないことを察した店員さんは「甚兵衛(じんべえ)はどうですか?」と提案してくれた。これだったら数千円で買えるとのこと。着物なんだけれど、半袖半ズボンのような感じで、着崩れして股が露わになることもない。本当は浴衣が良かったけれど、これだって十分格好良い。結局3着くらい試着してみて、紺の生地にいい感じで赤い線が入ったイカした甚兵衛を気が付いたら買っていた。となれば、荷物を入れる小物や下駄なども気になってくるわけで、巾着袋も買った。いや、買っていた。ただ、下駄についてはヨガを本格的にやるようになって足が大きくなってしまったため、その売場にあった下駄は無理でその後、靴屋でサンダルを買うということになった次第。
 花火大会当日、甚兵衛を身にまとったわたしは意気揚々と会場へと出掛けた。それからどうしたああしたみたいなことを書くと長くなるので端折って省略すると、さて、会場に着きました。
 いやぁ~、わたしの人生の中であれだけ女の子たちの視線を感じた日はなかった。っていうか、みんな見てくる。見てくる、見てくる。見てきます。ヨガの道場の行き帰りに女の子に見られることはあったけれど、あそこまでわたしの人生において見られたことはなかった。そこに遠慮などはない。見たいから見る。とにかく見る。そんな感じだった。自分で鏡を見てもこれはかなりいい男なのではないか、と思うくらいだったから女の子たちが気になるのも無理はない。ヨガで鍛え上げた肉体と端正な佇まいがある種、独特な空気を放っている。それが甚兵衛によってよりひきたっていていい感じなわけです。
 夏祭りに女友達と一緒にやってくる女の子たちはすごく本能的というか、男を求めている感じがする。彼氏がいたり、結婚している人なんかは他の男にはあまり興味を示さないけれど、フリーの女の子はかっこよくて素敵な男との出会いを求めている感じでものすごく前のめりになってさえいて、声をかけられることを待っているような空気さえ漂っている。会場へと向かう行きの臨時バスの中では女の子たちがひたすら恋バナをしていて、誰が付き合っているとかいないとか、彼氏がどうこうとか、ほとんど恋愛の話ばかりしていた。その様子から、あぁ彼女たちは恋をしたいんだ。それも素敵な恋を。そして、ゆくゆくは結婚して子どもを持っていいママさんになりたいんだ。さらには、いいおばあちゃんになって子どもや孫たちに囲まれて慕われたいんだ。要するに幸せになりたい。それが彼女たちの人生の見取り図であってそれを真剣に求めている。でなかったら、そんなわざわざ着るのが面倒くさい浴衣を着て髪もアップにしてと着飾ってはこないし、花火大会になんておそらく来ないだろう。
 そんな着飾った女の子たちを物欲しそうな飢えた眼差しでしっかりと見ている若い男の子たちの姿も印象的だった。「男はオオカミなのよ。気をつけなさい~♪」というピンクレディーの歌のごとく彼らはオオカミかハイエナのように虎視眈々とチャンスを窺っているわけなのさ。
 花火大会ってイケてる男女に必須のイベントなわけなのね。若い男女が出会いを求めている。それは言うまでもないこと。
 そんないわば戦場(ってほどでもないけれど)に一人焼き肉どころか一人花火大会のわたしが参戦~。プールもそうだけれど花火大会に一人で来ている人なんて周りを見渡してもほとんんどおりません。みんな、家族、友達、恋人などと一緒に来ていて、ぼっち野郎など皆無なのです。ちょっとアウェー感を感じつつも、一人プールで鍛えられているわたしは何食わぬ顔で参加。となれば、若い(ように見える。実際は40歳のおじさん)イケメンが一人で来ているなんてなおのこと女の子たちをそそっていたはず。ともかく、一人花火大会は一人焼き肉や一人プール以上に普通のメンタルでは無理です。わたしも神経が少しは図太くなったのかも。
 それにしても浴衣姿の女の子たちがやけに魅力的に見える。色っぽいというか何というか。おそらくわたしの中にも日本人の感覚がDNAとして受け継がれているのだろう。
 花火大会で分かった最もシンプルなことは、やはり一発目の初発の花火が一番感動して盛り上がるということ。一発目の感動にはすごいものがある。「おぉ!!」と大きな歓声が上がるのもやはり一発目で、とにかくこの一発目のインパクトはハンパない。が、それが二発目、三発目、とひたすら続いていき30分とか40分くらい経つ頃にはみんな集中力も切れてきて飽きてきてしまう。そして、花火大会も終盤となりトリというか、クライマックスが近くなってきて大玉の花火が打ち上げられるとまた盛り上がる。で、最後の花火。そこで最高潮となり終了となる。
 わたしの周りに小学生の男の子たちがいたのだけれど(小学校中学年かやや高学年)、大きな花火が打ち上がるたびにその中の一人が「気持ちいい~!!」と大きな声で叫んでいて、ませたお子様だと思いながら見ていたのだけれど、意味分かってるんだろうな。きっと。早熟だね。っていうか、それを聞いている大人の方が恥ずかしいから。最近の小学生はそういうこと詳しいだろうからなって変なところに感心してしまうよ。それと同時に人間の欲望、それも特に男性の性欲は打ち上げ花火だよなって改めて思った。そして、人生というものも打ち上げ花火のようなものかもしれない、なんてその儚さを思ったりもした。
 で、花火大会が終わって帰ることに。帰りの駅直行のバスに長蛇の列ができていて、結構待たされた。しかーし、女の子たちに抜かりはなく、またしてもそこでもひたすら見られていたわたし。わたしの前の女の子もわたしが気になるのか、普通に前を見ていたわたしと3~4回かそれ以上目が合った。
 と、わたしが女の子というか、女性に求めているものって何なんだろうって思った。一緒に何かをやりたいとか、それがゴールにまで到達して結婚となり、残りの人生を共に歩んでいきたいとかそういうのが何も(語弊があるな。正確には「ほとんど」)わたしにはないわけで。まぁ、要するに女の子とセックスすることには興味があるけれど、それ以外のその相手の女性のこれまで歩んできた人生についてとか人格的なものとか経験とか、そういうことにはてんで興味関心がない、やりたいだけのゲスな男なのだ。それが分かっているから女性とお付き合いしたいとか思わないのだろうし、あえて積極的に出会いを求めたいという気も起きない。子どもをほしいとか、育てたいという気持ちもほぼないし。別の言い方をすれば、自分が好きなことをやれている今が楽しくて幸せなのかもしれない。
 でも、そう思う一方で、本当にこれでいいのだろうかという煩悶もある。何かをやれば確かに楽しい。それはわたしを気持ちよくしてくれたり、幸せを感じさせてくれたり、充足感や満足感を与えてくれる。けれど、それは花火大会の花火ほどではないにしても、有限なものであって始まりと終わりがあるものでしかない。だとしたら、それは本当の満足ではない。本当の自由や幸せではない。わたしは何かをやって「楽しかったね」とか「美味しかったね」「面白かったね」という余韻に浸るのが好きでありながらも、そこに一抹の寂しさというか満たされなさを感じてしまう。あぁ、終わってしまった。終わってしまったのか。あの楽しい時ももう終わりなのか。そんなことを中学生くらいから感じてきた。終わってしまうことの寂しさ、そして悲しさ。どこか満たされない思い。花火大会や夏祭りが終わった後の終わってしまった感が漂うこの空気。それがいたたまれないというか、何というか。大好きな大好きな意中の女性と初めてセックスができても、予約が何年も取れないような超一流の世界的なシェフの料理を食べることができても、どんなにやりたいことや願っていたことがかなっても、それはすぐに終わってしまって、持続しなくて限りがあってその場限り。この言い知れない満たされなさはどうしたらいいのか? 何をやってもいつかは終わってしまって、それもすぐに終わってしまって「楽しかったね」と過去の出来事になってしまうというこのありきたりの現実。となったら、自分が興奮して気持ちよくい続けるためには大きな花火をドッカン、ドッカンとひたすら打ち上げ続ければいい? でも、それすらもいつかは終わってしまうし、それだけ刺激の強いものであっても今回の花火大会でも分かったように続けば刺激に慣れて飽きてきてしまう。飽きたらもっと強烈な刺激を?
 いや、もう何となくだけれど進む道は見えてきている。そうした過激な強い刺激を与え続けるのではなくて、むしろそれとは逆を行く。ひたすら静かに静かに静けさを求めていくという道だ。強い刺激をまるで足し算のように足し続けるあり方ではなくて、どこまでもどこまでも引いていって引き算のようにしていく。そして、その結果残った物。そこに静寂や静けさがあるのではないか。それこそが永続していくものではないか、と。本当にわたしを満たしてくれるもの。それを求めつつやっていきたいと思ったのだった。
 花火大会に参加して、わたしが求めているのは打ち上げ花火のようなものではないと分かったのは大きな収穫だったと思う。その意味でも参加してみて良かった。絶世の美女もわたしを本当には満たしてはくれない。では、何がわたしを満たしてくれるのか? それがだんだん見えてきたような。

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