何のために生きているのだろうと思う。ヴェーダーンタはモークシャのためだとはっきりと答える。それは本当なのだろうか? それともフィクションなのだろうか?
ヴェーダーンタの本を読み始めてからというもの、何か目の前の景色が色褪せてというか、輝きを失っているように見える。
今日プールへ行った。プールへ行って水の中を一生懸命歩いていた。夏のプールは気持ちがいい。暑さとは無縁のすがすがしい世界。でも、格別の喜びはなかった。何か冷めている。まわりの人たちはすごく楽しそうだ。わたしに笑顔はない。冷めているのだと思う。
少し前にこういう感覚になっているのはヨガを熱心にやるようになったからではないかとヨガの師匠に質問してみた。人からほめられても嬉しくなくて言葉が表面をつーっと滑っていくみたいなんですけど、と。そう尋ねたら「ヨガの影響ではないと思う。ほめられれば嬉しいものだからね」とのお答えをもらった。
この感覚がどういう感覚かと言うと、自分がそれに没入しないで客観的に観察しているような感じ。一歩引いてそれを眺めているような、と言えば分かってもらえるだろうか。だから、「嬉しい。きゃっほ~!! 最高~~!!!」ではない。自分がそれにのめり込んで感情移入とかしないで冷静に俯瞰しているような。で、師匠が一言最後に言った。「冷めていなければいいんだけどね」。わたしは多分冷めているんだろうな。
今日の夕飯はうなぎだった。金がないわたしにとってうなぎは贅沢品で嗜好品と言ってもいい。7月の土曜丑の日に母に喜んでもらおうと二人でお金を出し合って買った残りがまだあってそれを今日食べた。すごくおいしい。最高にうまい。でも、最高においしくてこの世のものとは思えないくらいのハイテンションが訪れて幸せ絶頂になるかと思いきや、ならない。うまいことはうまい。でも、それだけ。頭に上気が集まる感じではなくて、やっぱりどこか目の前に見えるもの、五感で感じているものに対して距離を置いている。冷静に眺めていて状況だったり物事に呑まれていないわたしがそこにはいた。
プールで遊んで楽しいことは楽しい。うなぎを食べておいしいことはおいしい。でも、嬉しいのだけれど嬉しくない。嬉しくないのだけれど嬉しい。どっちなのかと言えば、嬉しいのだし、おいしいのだろう。でも、それに巻き込まれていないと言ったら的確かと。
となれば最近変えてみたことや始めてみたことなどを振り返ってみるのがいいのかもしれない。最近、瞑想を始めた。そして、ヴェーダーンタの本を読み始めた。原因として考えられそうなのはそれくらいだ。
毎朝瞑想をするようになって、その時間の静けさに心地良さを覚え始めた。瞑想をするようになってノリが悪くなったのではないかと思う。自分を眺めている自分がいるような感じになっている。
そして、ヴェーダーンタの本を読むようになって、より良くなっていくことに疑いを持つようになってきた。苦しいよりはその苦しみがなくなって楽しかったり嬉しかったりするほうがいいというのは事実としても、それが何なんだろうと思うようになってきたのだ。メンタルが安定する。幸福感が増す。身体の調子がいい。たしかにそれらは好ましいことであって、素晴らしいことのように普通の人は思うだろうし、わたしもそう思っていた。
でも、それが本質なのだろうか? それが一番大事な肝心要のことなのだろうか? 違うとヴェーダーンタは考えるようでそれは本質ではないらしい。モークシャの一点。ただそれだけだと喝破する。
良くなること。強くたくましく健康的になっていくこと。頭が冴えて賢くなっていくこと。お金をたくさん手に入れて裕福になること。でも、それらと、まさにその反対のものすべてが等価で同じ価値なのだとしたら? それが悟った人の見ている世界なのだとしたら?
このヴェーダーンタの教えはすごく研ぎ澄まされていて、清らかな人でないと受け入れられないのだと思うし、それを感じる。
わたしは凄まじいものに出会ってしまったのかもしれない。自己探求の旅はまだ始まったばかり。「急がないでやっていこう」と自分に言い聞かせながら。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/元ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。