ダメだこりゃ

キリスト教エッセイ
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 魔が差した。魔が差して、母がもらってきて置いてあった教会の月報の牧師の文章をこっそり読んでしまった。そして、思った。ダメだこりゃ、と。
 わたしは教会の牧師はサービス業のようなものだと考えている。でも、ただのサービス業ではない。魂のサービス業、つまりは牧者。
 だから牧師は信徒のケアをしなければならない。日頃から気にかけて、いたわり、魂が枯れないようにする。
 でなかったら何でお給料とかもらっているのだろう? それも月に何十万円も。わたしがそれだけ稼ぐとしたら30万円だとしても、ほぼ最低賃金だから、月に300時間、週5日で1日あたり15時間は仕事をしなければならない。
 でも、その牧師はカスタマーファーストではダメだと文章に綴っている。信徒はお客さんではないのだ、と。
 人はなぜ教会へ行くのだろうと考えてみると、高齢の教会員のOさんも言っていたようにメリットがあるからではないかと思うのだけれど、それではいけないのだろうか。
 逆に教会にメリットがほとんど感じられなかったり、それどころかデメリットしかないとしても、それでも人は教会へと行くのだろうか?
 教会に行っても信徒の人たちが全然優しくなくて冷たくて敵意さえ剥き出しにしてくる。牧師の説教を聞いても、内容がチンプンカンプンで理解できなかったり、あるいは説教を聞くと心がかき乱されて礼拝前よりも精神状態が悪くなる。挙げ句の果てには、そんな感じでデメリットしかないのに献金はしっかりと強制されてお金を巻き上げられる。と、それでも牧師が優しく寄り添ってくれるのかと思いきや、ただ形式的な挨拶をするだけでほぼ無関心でいつも放置されているだけ。教会がこんなだったら誰も行きたいなんて思わないだろう。行きたいと思う人はかなりの変わり者か虐げられることに快感を覚える倒錯した人くらいだけだ。
 牧師は文章の中で、教会はレストランのような場所で、そこの料理人は牧師だということをある本で読んだと書いていた。そして、レストランのように客を満足させることを第一にしてしまうのは教会にとって良くないと述べていた。
 でも、誰が、遅くて、高くて、不味くて、汚くて、店主が無愛想なレストランへ行きたいと思うのか? そんなレストラン、すぐつぶれるだけだ。
 まぁ、レストランのたとえはともかくとしても、イエスさまは言われた。仕える人になりなさい、と。だからこそ、牧師は「俺は牧師なんだぞ。尊敬しろよ。先生と呼べよ」ではまずいわけで、誰よりも謙遜でなければならなくて、誰よりもへりくだって信徒たちに自ら模範を示さなくてはならない。へりくだって、へりくだって、すぐに精神的に折れそうになったり行き詰まりがちな信徒にどこまでも寄り添う。そして、そうすることによって、その牧師によって支えられた信徒がまた別の人を同じように支える。みんなで仕え合う。それがキリスト教の精神なのではないかと思う。
 たしかにカスタマーファースト過ぎるのは問題だとは思う。でも、まずは最低限、信徒一人ひとりに寄り添うことくらいはやるべきではないかとわたしは思うのだ。自分をヨイショ、ヨイショしてくれる、「先生、先生」と尊敬して慕ってくれる信徒がかわいいのは牧師も人間なのだから仕方がないとは思う。けれど、一見、牧師に対して反抗的だったり、無愛想だったり、自分の意見をぶつけてくる、そんないわゆるかわいくない羊、つまり信徒こそ、魂が渇いていて困難な状況にいることが多いのだから、そんな彼らの方こそむしろ率先して寄り添ってケアしなければならない。それなのに牧師にとってかわいい羊ばかりかわいがってそうではない羊は放置して放っておくというのは牧者としてどうかと思ってしまうのだけれど、何かわたしはおかしなことを言っているのだろうか。少なくともキリスト教の場合には失われた羊こそ探しに行くのだ。迷っていない99匹を残して、その迷っている1匹を探しに行くのだから。
 でも、きっと変わらないんだろうなって思う。わたしがこんなことを言えば、牧師はおそらく怒るだろうし、きっとまた最もな理屈をこねあげて反論してくるだけだろう。で、わたしの気持ちがかき乱されて、となる。
 ここまで書いてきたら何だか気持ちが曇ってきた。それもそのはずで、全然アヒンサー(非暴力)を守れていないから。わたし、攻撃してますね、はい。いかん、いかん。批判は自分の身をまず滅ぼす。けれど、何か書きたかった。そして書いた。で、気持ちが曇ってきて、今。
 あの牧師のことを考えるだけで気持ちがネガティブになってくるのだから、関わらない方がいいのだろう。わたしはわたしの道を歩き始めています。どうかお元気で。お達者で。と手放すことにしようかと思う次第です。

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