人生に意味はあるか?

ヨガ星のアシュタンガヨガ日記インド哲学
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 先日、ヨガの道場でワークショップが行われた。真面目な練習生のわたしはもちろん参加して、外部から招いた先生の話に耳を傾けた。
 わたしはそのワークショップ内でも発言したのだけれど、人生の意味というものは主観的なものだと考えている。わたしはこう思う。誰々さんはこう思う。そして、また別の誰々さんはこう思う。それだけのことなのだと思う。
 でも、人というものは絶対的なものをどうしても求めてしまう。絶対に正しくて、間違っていない本当の信頼が置ける正しさや意味や価値というものを。となると、神様が言うところに従いたくなってくる。神様はこう言っている。だから、これが正しいんだ、意味があり、価値があるんだ、と。
 そんなことをみんなの前で発言したら、その講師の先生は、神を持ち出した結果、現在戦争が絶えない状況となっているのだから、それはどうなのだろうか、というようなことを言った。
 うむ、たしかにそうなのかもしれない。二つの争っている集団がそれぞれに絶対的な神を持ち出している。となれば、考えられるのは、両者の神の正しさが間違っているのか、片方の神の正しさが間違っているのか、あるいは両方とも正しいのか、のいずれかでしかない。
 で、わたしの個人的な意見としては、両方とも間違っているのではないかと思う。それぞれ神様を持ち出してはいるけれど、両者とも間違っているのではないか。
 キリスト教国であるアメリカはよく戦争をする。でも、果たしてアメリカはイエスさまの非暴力的な教えを守っているのだろうか。イエスさまは悪人に手向かってはならないとか、敵を愛し迫害する者のために祈りなさいというようなすごく徳の高い教えを人類に残された。だから、少なくともキリスト教を信じている人なら戦争なんてできないし、他の宗教だって教祖が「戦争をして殺し合いを好きなだけしなさい」なんて教えてはいないのだから、その教えを純粋に守ろうとすれば戦争になんてなるわけがない。
 と、いきなり少し脱線気味になってしまった。気を取り直して話を戻すと、このわたしの発言はその前のある参加者の発言を受けてなされたものだったのだ。
 その人はこんなことを言った。「人生に意味などないと思う。なぜなら、すべてはエネルギーでしかないから。それに、そう考えた方がスッキリしていい」。
 でも、何だかそれを聞いていたらわたしの中に疑問が浮かんできた。じゃあ、どうしてこの人はヨガの道場に通い、日々練習しているのだろう? それは単なる精神的安定や気分を良くするためとか健康でいるためといった理由なのだろうか?
 すべてはエネルギーでしかない。たしかにそれはもっともな意見ではある。わたしも以前、海の波を見ていて、その海の水というエネルギーが波という形を取って、現れては消えて海に戻って、また現れては戻ってを繰り返しているだけに見えた時、何だかこのわたしが生きていることが意味がないように思えてしまって仕方がなかった。今、目の前に次々に現れては消えていく波に果たして意味があるのか、と問えば、その波はわたししか見ていないし、多くの人たちから「いい波だね」と評価されているわけでもないからだ。もっと言うなら、誰も見ていない、誰も知らない時に現れただけの波は意味があるのか、ということになっていく。
 いや、そんな理屈はともかくとして、その人生に意味などないと言ったその人は本当は人生の意味がほしいのではないか。「意味などない方がスッキリしていい」みたいなことを言いながらも実は意味や価値といったものを渇望している。でも、それを言ってしまうとその人は自分の弱さをさらけ出すことになってしまうから、それができなくて強がっている。わたしにはそんな風に思えてしまう。
 人生に意味などない。その行き着く結論というか、先は、自分が生きていること、そして他者、ならびにこの世界があることは意味がなくて、無意味で、無価値で、単なる徒労でしかないということだ。となれば、唯物的に単なる物質が循環して動いているだけでしかないのだから、自分が生きようが死のうが、そして、他者がみんな死んでいこうがどうしようが、世界そのものが消滅しようがどうしようが、どうでもいいという思想へとつながっていく。
 わたしも最近、その人と同じような感じの疑問にぶつかっていて、シャンカラの本を読んでいた時だったのだけれど、ヴェーダーンタの不二一元論のようにブラフマンといういわば神様だけしか実在しないのだとしたら、この世界に意味はないのではないかと思い始めていたのだ。インド哲学は、悟る、解脱するための哲学ですべてはそのためにある。だとしたら、合理的に考えるなら、何でブラフマン(言い換えると神様)はこの世界ならびに万物を創られたのだろう? 別に最初からブラフマンという神様だけしか存在していないのなら、それで良かったではないか。悟るも悟らないも、そんなことなど必要のないただ一つの満たされたブラフマンだけがただある世界。それだけで良かったのではないか。みんな一つで、みんなの意識に区別はなくて、ただただ安らかで至福。その状態が永遠に続いている。もう完璧な世界。思い煩いも悩みも苦しみも、そんなものはこれっぽっちもない世界。その方が良かったのではないか。
 この考えはわたしが熱心にキリスト教の勉強などをしていた時に気付いたことがインド哲学でも同じような状況になって再燃されたもので、キリスト教だったら最初からみんな天国にいて天地創造なんて必要なかったということで、インド哲学の場合でも同じことが言えるとわたしは思ったのだ。
 でも、たとえそれが事実でこの人生だったり世界や宇宙などに意味がなかったとしても、わたしにとっての意味というものは残る。そして、同じように誰々にとっての意味も当然残る。もしも神様が言うわけはないけれど、「お前の人生、意味ないよ」とわたしに突きつけたとしても、それでもわたしがこの自分の人生に意味があると思っているのなら、わたしにとっては意味がある。世界中のわたし以外のすべての人、さらにきつくなってたとえ神様さえもが「意味ないね」とジャッジしたとしても、それでもわたしが思うところの自分の人生の意味というものはそう思っている限り、破壊されることはないし、誰にも壊すことなどできない。
 だからこそ、どんなに多くの人たちから賞賛され、絶賛されて、尊敬さえされて、「あなたの人生には意味がありますよ」と言われても、この自分自身が「みんなはそう言ってくれているけれど、わたしは自分の人生には意味がないと思っています」と思うのなら、その人にとっては人生は意味がないものでしかない。
 意味や価値というものは評価する人や判定する人を必要とする。そう考えると、お金だって物だって人だって、果ては人生全体も、ことごとくそれらをわたしたちは価値があるのかないのか、あるとしたらどの程度価値があるのかと判定してジャッジしている。お金で言うなら1万円札は単なる紙切れでしかないはずなのに、同じ紙からできているトイレットペーパーのようにお尻を拭いたりしないのはその1万円札の価値を認めているからに他ならない。
 わたしの人生に、そしてみんなの人生に意味があるのかどうか、究極的なところは分からないし、知りようがない。「意味などというものは主観的なものでしかない」とわたしは考えているし、それは今後も変わらないだろう。でも、その講師の先生がぽつりとこんなことを言った。「主観を超えた意味があるのではないか」と。あぁ、そうか。主観とか客観とかそういう次元を超えた意味や価値。超越した次元。おそらくそれが悟りと言われているものなのだろう。誰々がこう思うとか、こう考えるとかそういう次元を突き抜けた究極的な領域。う~ん、分かるような分からないような。つまり、わたしとあなたの境界線がなくなって溶けて一つになるような、自他の区別がなくなったそんな意味であり価値。
 そう考えると、人生には意味がないと発言したあの人がすべてはエネルギーだからと言ったのもこういう次元の話を科学的な言葉で言おうとしていたのかもしれないと思えなくもない。すべては一つ。そして、それは意識とかエネルギーのようなもの。もはやそうなると主観がどうこうとか意味が云々などとは言っていられなくなって、主観も客観も意味がなくなってただ一つの存在としてあるだけとなる。その人は意味を超越しているのだと言いたかったのかもしれない。意味があるとかないとか、そういう次元ではない。でも、強いて言うなら「意味はない」。なぜなら、もはや意味がどうこうという話ではないから。意味があるとかないとか、そういうこと自体がもはや、ない。だから、意味がない。
 しかしながら、現実的には自分が意味があると思うものを一生懸命やっていく、という凡庸な話となりそうだ。形而上学的な話はともかくとして、日々ヨガをやり、一日一日を大切に過ごしていくでいいのだと思う。人生に意味はないのかもしれないけれど、意味があってほしいし、意味があると思っているから自ら死ぬことなくわたしはこうして生きている。自分の人生がことごとく無意味で無価値。単なる無駄であり徒労。そう思いつつ幸せに生きていける人はいるのだろうか?

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