ラーマクリシュナとヴェーダーンタの本を読みながら禁欲しつつ考えたこと

インド哲学
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 ここ数日、ラーマクリシュナとヴェーダーンタ哲学の本を読んでいて、それはそれは面白く充実した日々を過ごしていた。特に初めて学ぶヴェーダーンタは最高にクールで、ものすごく刺激的だった。
 まだ初心者だけれども、それなりに思ったことは、悟りというものは煩悩の矢が抜き取られて完全に自由になった状態ではないか、ということだった。
 人間の欲望をどこまでもなくしていったらどうなるかと言えば、言うまでもなく餓死する。でも、それはやりすぎなので、最小限の衣食住を満たしつつ、どこまでも欲望がない状態へと近付けようとする。
 欲望がない状態というのは、あれをしたい、これをしたいという思いがない状態を意味する。また、自分にとってのこだわりなどからも自由になれている。そんな感じ。
 そんな欲望がほぼゼロの状態を目指して、今日も意識の高い人たちは修行をして悟りを目指している。その例に漏れず、わたしもヨガというツールを使って、悟りの方向をそれとなく目指していた(っぽい)。
 が、透徹したヴェーダーンタの思想をかじってみて、こりゃあ相当危険だなとわたしは思った。というのは、これはまだ勉強不足で誤解にもとづく見当違いな考えかもしれないけれど、まぁ、単純にヴェーダーンタを言ってしまえば、真我という絶対者(神)だけがいるっていう思想なんだ。だから、この宇宙全体、つまりはこの世界は幻なんだと考える。万物は存在していなくて、わたしたちは日々、映画を見ているようなもので、その何も存在していない世界で必死にあくせくあくせく生きているということ。となれば、意味も価値も善悪もそこにはない。そんなものは存在していなくて、ただただ幻がある。五感で見て、さわって、嗅いで、聞いて、味わってとたしかにあるように確信しているこの世界は海の波のように絶え間なく立ち現れては消えてを繰り返しているだけ。波がある。それは良くも悪くもないし、価値があるとかないということもない。波が寄せては返し、寄せては返す。それだけのこと。
 その考えで行けば、万物は幻なのだから、日常的に自分だと思っているこのわたしも幻でしかないのは言うまでもない。わたしの肉体も感情も思考も何もかも幻。そうなってくると、必然的に悟りとか解脱といったものも存在しないことになる。まぁ、幻の中で人という幻として生きて、死に、それからまたまた別の幻として幻にすぎない肉体を取って生まれて、また死んで、また別の幻へと移行するということがなくなることを悟りとか解脱と呼ぶのであれば存在するのだろうけれど、それだって幻の中でどうこうするというだけの話でしかないから、どうなんでしょうという感じなんだ。
 あるのは、存在するのは真我という絶対的なものだけ。それはわたしたちを含めたこの世界を海の波だとすると真我は海を意味する。大きな大きな海。広大でどこまでも広がる海。要するに、本当のわたしは海の波ではなくて海全体なんだと気付く。それが悟ることであり解脱することのようだ。
 わたし自身、危険だ何だと言いながらも、このヴェーダーンタの思想と出会って、ものすごく癒された。それは儚いものに翻弄される必要がないと気付かされたからだ。わたしたちはいろいろなものをほしいと思う。あれを手に入れたい、これを手に入れたいと気が付くと欲望全開で突っ走ってしまう。でも、すべては波であってその瞬間現れただけのものでしかないと悟る時、それを手に入れることがどうでもよくなってくる。たしかにそれらは魅力的なもののように見えるけれど、その瞬間限りで終わってしまう。いわば、それらは打ち上げ花火。そんな永続しないものを頼りにしても本当の平安は得られない。
 というか、そのほしいと思ったものを含めてすべてがわたしなんだ。すべてがわたしなのだからもう何かを手に入れる必要なんてない。もう既に本当のわたしは完全無欠で広大無辺で永遠。つまり、もうすべてを手に入れているということで、不足するものなんかない。みんなわたし。すべての波は海の一部でしかないのだから、何かを手に入れようとしなくても、本当のわたしはもう完璧に自足している。憧れのブランドのバッグも、相思相愛になりたくて片思い中のあの人も、牛も、豚も、虫も、ガラスのコップも、電信柱も、地面も、そして嫌いで仕方がないあの人も、犬のフンも、汚い下水も、ごみも、汚物も、空も、海も、大地も、空気も、何もかもわたしなんだ。そして、それらはすべてが神様であって、とかなりぶっ飛んでいると言えばぶっ飛んではいるのだけれど、慰めにはなると思う。
 この世界観で行くとした時に、分からないのが、だとしたらどう生きようがいいんじゃないですか、という身も蓋もない疑問だったりする。もう何をやるまでもなく、何を努力するまでもなくわたしが完全だとしたら、どうして一生懸命ストイックに生きようとするのか? 何であえて修行とか苦行みたいなことをしなければならないのか? そこのところがわたしには分からない。この世界が波のようなもので、幻なのだとしたら、この波や幻のようなもののクオリティーを上げることにいかなる意味があるのかって思ってしまうんだけれど、この質問は馬鹿げているのだろうか。いい波にしよう。いい幻にしよう、なんて言ったところで、それはすぐに海へと戻って消えてしまう波であり、どんなに良くしても幻は幻なのだからわたしには徒労のように思えてしまう。
 本当の自分が真我といういわば完全体の神様のような存在で、ただ幻としてこの世界があり、わたしという肉体や思考や知覚なども同じように幻でしかないのだとしたら、輪廻を何度繰り返したとしても別に構わないのではないかという風に思えてくる。なぜなら、それは幻でしかないのだから。
 海を見ていると疑問が浮かんでくる。海は何のためにこの波をひたすら起こしているのだろう? 何のために際限なくこの営みを繰り返しているのかと考えずにはいられない。でも、それはどんなに考えても分からない。海自身に聞くか、あるいは海を作られた方に質問するしかない。
 同じようにわたしたちの一生というものも波のように輪廻として何回も何回も繰り返されてきたとしたら一体何のためなのだろう? しかもこの人生というものが幻でしかないのだとしたら一体何のためにこれをひたすら繰り返しているのだろう? 何のため? やっぱりキリスト教的だよね、わたし。
 本当のわたしが真我という神様であって、完全なのだとしたら何のために頑張るのだろう? 何かを努力するのは自分が不完全で足りないから、とすれば完全無欠なわたしに努力は必要なしってことになると思うのですが? この世界という幻の中で幻として生きている不完全なわたしを少しでも進歩向上させる。幻の中で幻として幻の努力を懸命にする。どうもそれでは意味がないように思えてしまう。ゲームの世界の中でどれだけレベルを上げて、成長して、お金を手に入れてもむなしいように、この世界が幻なのだと認めるならやる気がなくなるのは自然なこと。
 また、ヴェーダーンタの幻という思想は危険でもある。何をしようが幻なんだからいいじゃん、と無責任なことにもなりかねないのだ。怠惰な生活を送ることはもちろんのこととして、人として倫理的に許されないようなことだって「幻なのだから」の一声でタガが外れてしまう。
 ヴェーダーンタの本を読んでいたら何か急にこの現世がどうでも良くなってきた。すべてのことがどうでもいいわけではないものの、多くのことがもはやどうでもいい。だって幻なんでしょう? 幻ならそれにこだわる必要なんてない。執着する必要なんてないし、かじりついてしがみつかなくていいはずなんだ。
 けれども、幻だと分かった上で、それでもこの世界を楽しんでいくというあり方はできそうだ。ゲームの中で成長したり、お金持ちになることだって無駄と言えば無駄だけれど、そのゲームだってやっている時間はそれなりに楽しいわけであって頭ごなしに意味がないと言ってしまうのも短絡的だ。
 この世界はヴェーダーンタが教えるように幻なのかもしれない。あるいはそれは間違いでちゃんと実在しているのかもしれない。それは分からない。でも、たとえこの世界が幻であろうが実在していようが、今わたし(だと思っている自分)はここにいる。だとしたら、もっとシンプルに今を生きてもいいのではないだろうか。ストイックになり過ぎないで適当に息抜きしてもいいのではないか。好きなように生きてもいいのではないだろうか。
 最後に一言。今、禁欲しています。それで何か下半身が過敏になってきています。この禁欲がいつまで続くのか。続けられるのか。ラーマクリシュナとヴェーダーンタの本を読みつつ自制しているわたくしなのでありました(両方とも禁欲を奨励しているのね)。ものすごくムラムラしています。でも、女性がみんな魅力的に見えて幸せ~(笑)。4割増しだな。以上!!

追伸:この記事を書いた次の日に禁欲を破ってしまいました。何かもうおかしくなりそうで。わたしにとっての禁欲は長くて1週間程度が限界のようです。ヨガをやりハードに体を動かしていますし、タンパク質を多めに摂る食事をしているので、普通に性欲処理をしていても、それでもムラムラするくらいなのです。それを禁欲することによってものすごく性的な衝動が高まっていました。これはまずいと思ったので破った次第です。以上、追伸でした。

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