アンチエイジングと好き放題の間でわたしが考えたこと

いろいろエッセイヨガ
この記事は約8分で読めます。

 今朝、なぜかアンチエイジングの本が読みたくなった。誰しもが思い、願うこと。それはいつまでも若く美しくはつらつとしていたいということ。いつまでも病気知らずでしなやかでいたいという、そう太古の昔から人間が願ってきたことなのだ。
 アンチエイジングは意味があるのか? 推進派は意味があり、有意義だと言う。そりゃあ、推進派なんだからすすめますよ。進めない推進派は推進派ではございません。と、つまらないことを申しました。では、本題。アンチエイジングは意味があるのか? って同じことを繰り返してますけれど、わたしはいろいろ考えてしまっているのだ。意味があるのかなぁ? やる価値があるのかなぁって。それにわたしの人生がかかっているわけではないものの、その方向性というか、どの道を行くかでおのずと未来は変わってくる。そのことだけはたしかで、どちらに行くのか? そのことによって変わってくる。
 アンチエイジングで良くないとされているもの。それは砂糖や小麦粉など大量の精製されていない炭水化物を摂ること。だから、生クリームたっぷりのケーキとか、ドーナツとか、そういったスイーツをドカドカ食べるというのが一番良くないんだ。体がもちろん糖化(体内のタンパク質が糖質と結び付いてこげること。そう、ホットケーキのように)してくるわけで、わたしが読んだ本にはありとあらゆるネガティブなことが書いてあった。そう、生活習慣病のコースへとまっしぐらなのだ。もちろん、お肌にも良くなくて美肌でいることはできない。
 こういったことはスイーツだけではなくて、つまりは炭水化物の摂りすぎ全般によって引き起こされる。ラーメンライスを何杯も食べるとかそういうこともダメ。
 え~、そんなんじゃ何を楽しみにして生きているのか分かんないよ。そんな声も聞こえてきそうだ。でも、アンチエイジングに徹するのであれば、そういった大量の炭水化物などを摂らないで、タンパク質重視で脂質もしっかりと適度に摂り、炭水化物もほどほどにしておく。その割合はアンチエイジングの観点からはタンパク質:脂質:炭水化物=2:2:6にするといいらしい。2000kcalを食事で摂るのならタンパク質と脂質を400kcalずつ。そして炭水化物を1200kcalにする。とすると、タンパク質を100g、脂質を45g、そして炭水化物を300gという計算になる。
 さてさて、少しばかり突っ込んだ話をしましたけれど、そういった健康で健やかでいたいという気持ちをすべて無にするような考え方もある。それが好き放題にやりたい放題に生きる生き方で、どうせ人間死ぬんだから好きなもん食って病気になろうがどうなろうが、そんなことは大したことじゃない。太く短く生きられればそれで結構。アンチエイジング? そんなの無駄無駄。数年か長くて、もう少しの間だけ元気でいられるだけ。と、この思想には人間は何をやってもいずれは死ぬのだという徹底したニヒリズムさえもがあるようにわたしは感じる。どうせ死ぬ。だから何やったっていい。我慢するなんて愚の骨頂というわけなのだ。
 その行き着く先は酒池肉林ではないかと思う。性欲と食欲に溺れてまるで獣のように(いや、獣もそこまではやりませんな。獣だって四六時中そういったことをやっているわけではない。念のため)なる。快楽をどこまでも追求していって、とにかく今、気持ち良ければそれでいい。後はどうなろうが知ったことではない。
 この自分を律するアンチエイジングと放縦するかのような生き方。どちらがいいのだろう? ってこれはもしかしなくても人類が答えを出せないで来た問題なのかもしれませんね。でも、一つたしかなことはどちらの人もいずれは死ぬということ。どんなにアンチエイジングを頑張って懸命に若くいようとした人もさすがに不老不死にはなれないし、一定の年数が来たら死ななければならない。一方の好き放題やった人もおそらく短命な生涯をいつかは終えて人生の幕を閉じる。っていうか、どちらがいいのだろう? どちらの方が価値があって素晴らしいのだろう? などと価値を密輸入してしまうわたくしなのですが、まぁ、とりあえず両者とも遅いか早いかの違いだけでいずれは死ぬのです。アンチエイジング組が健やかにほとんど苦しむことなく死んでいくだろうというのに対して、好き放題の酒池肉林組は生活習慣病か何か重い病にかかって(おそらく内科系の病気ね)苦しみながら死んでいくことでありましょう。けれど、どちらも死ぬのです。どんな生涯を送ろうが、おいしい思いをしようが、苦しい思いをしようが、楽しかろうが、つまらなかろうが、幸せだろうが、不幸せだろうが死ぬのです。
 とあることに気が付いた。そうかこれらには上下も貴賤も価値の高低もそういったものはないんだ。ただ、その人その人が生涯を終えて死んでいく。ただそれだけのことなんだ。
 もっと言うなら、人間の生涯なんて流れ星のきらめきのようなものだとも言えなくもない。もちろん、毎日を生きて、その時間を過ごしている時にはその100年人生は長く感じられるものの、宇宙の歴史や人類の歴史からしてみれば、一人の人間の生涯なんて瞬きにもならないほどの長さのものでしかない。その瞬きにもならない人生の時間を人は充実させよう、光り輝かせようと躍起になる。なぜだろう? どうせ死ぬんですよ。そして、その時間は限りなく有限な時間で儚いものでしかないんですよ。けれど、人は生の輝きを、キラキラを求める。いや、求めてしまうと言った方が正確なのかもしれない。とにかく人は求めてしまうんだ。
 そんなこの世の喧噪とは裏腹に聖者はその傍を静かに通り過ぎていく。その人にはこの世界はどう映っているのだろうか? いやはや気になるところではあるけれど、インドの聖典によればすべてが平等に映っているようなのだ。本当に高いレベルまで心が澄み切った人にとっては、どっちが上でどっちが下でなんていうことはもう既になくなっている。ただただ平等。となれば、もちろん価値の高低も貴賤もそんなものは微塵も感じられない。
 ということはわたしの最初の問い自体がまだまだ修行が足りないということになりそうだ。二つのどんぐりを手の平にのせて「どっちの方が上だと思う? どっちの方が価値があると思う?」などと自問自答しているのだから。あくまでも色眼鏡をかけてそのどんぐりを見てしまっているだけで、そう問うこと自体ナンセンスなんだ。でも、どっちの方が価値がある、ではなくて「どっちの方が高く売れる?」なら意味をなしてそれなりに答えることができる。そう問う時には、「誰かがどちらかに高い金銭的価値を見出すかどうか、それ次第だと思うよ」と答えればいいだけなのだ。
 人はえてして苦しみを避けて快適に安楽で健やかでありたいと思う。そう、それは本能。でも、もしかしたらだけれど、何か絶対的な存在にとっては苦しみこそが、苦しさこそが何よりも価値があるものなのかもしれない。なんてへそ曲がりだと多くの人は思うことだろう。でも、世間一般でダメだと言われていることやネガティブな価値として受け止められていること自体が実は本当は素晴らしくて価値があった、なんていう逆説が真実なのかもしれないのだ。というか、その真実って誰にとっての真実なのだろう? わたしにとっての真実と別のBさんならBさんの真実は重なる部分こそ多分にあれど、完全には一致しない。またそこにAさんも現れれば、そこに三者三様の真実が立ち現れてくる。
 そう考えてみると、もしかしたらだけれど、どれだけ多く内科的な、いわば生活習慣病にかかっているか、そしてどれだけ身体的な苦痛を抱えているか、それが多いのが素晴らしいと考える、病気自慢をするような、そこに価値を置くような人だって世界には80億も人間がいるのだからいないとも限らない。そして、その価値観と世間一般の病気や怪我がなければないほど素晴らしいという価値観のどちらが正当で正しいのか、ということを決める決定打は神様の価値観くらいしかないのだ。そう、だから、最後はいついかなる時にも絶対正しい神様が「こっちの方が価値がある!」とありがたいお言葉を述べられてすべての決着がついてしまう(でも、まぁ、神様であっても「所詮は神様の一方的な考えだろ」と切り返すことができないわけでもない)。しかしながら、その病気礼賛の人からしてみたら神様から間違っていると言われても、「納得できないんですけど」となることは必死だ。じゃあ、神様の言うことさえもが相対化されてしまう時には一体わたしたちは何を信じたらいいのか? 何を指針としたらいいのか? とここで壁にぶつかってしまう。
 ヨガの世界では「直感を信じたらどうか」とよく言われる。その直感にはきっと真理がある。なぜなら、わたしたちを含めた万物は一つなのであって、その源から直感は来ているだろうから。その源は全知全能であって、すべてを知っている。その全知全能な意識がわたしの中にはしっかりとある。ただそれが曇ってしまっていて見えなくなっているだけのことで。
 などといろいろ書いてきたけれど、最後にはやはり自分の思うところに従っていくしかないように思えてきた。なぜなら、自分の思わないようには思えないのだし、思うところでしかあることはできないからだ。
 人は必ず何かを思う。そして、思いながら毎日生きている。言ってみれば毎日、複雑さに程度の差こそあれ、思想を紡ぎ出しながら生きているのだ。だとしたら、その思うところに正直でありたいとわたしなどは思う。だから、乱暴なようだけれど、アンチエイジングをして健やかであり続けたいのであればそれをやればいいし、暴飲暴食をして快楽に身を委ね酒池肉林に生きるのなら生きればいい。それを誰か他の人に強制したり、無理強いしたりしなければ、どんなに乱れた食事をしようが構わない。最後の結論に至って、何て乱暴なことを言っているのかと自分で驚きつつも、こうした凡庸な結論で落ち着きそうだ。でも、わたしは頭ではそう思いながらも、根が真面目ちゃんなようなので、やっぱり不摂生な生活をしてそれを治すために本来だったら必要のない手間と労力(治療や介護など)をかけさせるのは良くないなぁと思ってしまう(日本の医療費すごいことになってますよ、本当)。
 何を良しとするか。最後はこのシンプルな問いへと戻ってくる。わたしが良しとしている。それも人には迷惑をかけていない。だったら別にそれでいいいのではないか。ぐだぐだ考えた末にすごくシンプル極まりない答えにたどり着いたわたしなのでした。やっぱり、自分で決めたいなぁ。自分の信じるがままに。以上。

PAGE TOP