
わたしは今、家庭菜園をやっていて野菜を育てている。そうすると必ずしなければならないのが水やりで、なかなかこれが面倒くさい。最初に水をあげればもう水やり不要です、なんて言う野菜の品種ができたら買いたいくらいなのだけれど、ふとそれってどうなのかなという気もしてくる。
何かを大切にすることにおいて一番必要なことは常にそのことを気に掛けているかどうかだと思う。大切な物、大切なこと、大切な人。すべてにおいてそれが常にとまではいかなくても、それなりに自分の意識の中で多くを占めている。それだからこそ、それは大切なものであって、そうではない時はそれほど大切なものとは言えない。
人間関係においてもこれは当てはまって、時々思い出したようにその人を気遣ったりケアしたりするのでは相手に自分の思いは伝わらない。一番いいのは毎日大切なその人と話をして気遣うこと。それができないなら、それでもまめに関わろうとする必要はある。
時々思い出したようにたくさん話をすればそれでいいんじゃないか、と思う人もいることだろう。でも、人間も植物と同じで、時々水やりをしても、水をやらない日の方が多ければ枯れてしまう。
家庭菜園で水をやるのを忘れそうになって午後になってしまったり、1日忘れてしまった時にはその植物たちは干からびて元気がなくしおれた感じになる。それはそうだろう。だって水が与えられなかったのだから。だから、それは人間も同じ。水を与えられない日が続けばしおれて、枯れてしまう。
大切な物や人を大切にするめには、それらに多くの時間を割かなければならない。面倒だ。でも、それしか大切にすることにおいて正解はない、それこそが大切にするということだ。
反対にその物や人を粗末にしたいのであれば、何も意識や関心を向けずに、ただただ放っておけばいい。放置してそれが傷んだり、駄目になったり、寂しい思いをしていても、そんなことは知らないかのごとくの態度を取り、そんな大変なことになっていることさえも想像だにしない。それは大切なものなんかではなくて、どうでもいいもの。そして、どうでもいい人。
だから、何かを大切にしたいと思ったら、面倒だけれど水をやる。それもできたら毎日のように。毎日、大量にではなくて適切な量を与える。それは水やりのごとく、関心だったり、手入れだったり、愛情だったり、ケアだったり、気遣いだったり。そんな態度で物や人に向き合っていれば、物はいつまでも手入れが行き届いていて新品同様で、人なら自分が気遣ってもらえていること、そして大切にされ、愛されてていることを感じてあなたに好意的に接してくれることだろう。
何だ、やっぱり近道ってないんだな。常に大切にすることが求められるんだな。
最初にどーんと一生分(40年とか50年分)の愛情を与えられてもその後、無関心で放っておかれたら人はその伴侶を愛し続けることができないように、愛も小出しで行かなければならない。何かを大切にするということはかくも面倒くさいもの。でも、それをやるんだ。その大切なものを大切にするために。本当に大切にしていくために。それだからこそ、それが大切なものだと言えるんじゃないの?
何かを大切にすることは手間がかかる。その手間を味わいつつ生きていきたい。その手間こそ人生の深みではないか。忘れず水やりをするべし。それがすべてなのだ。
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エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。