最近、ブログを毎日更新せずにさぼっているからなのか、そんなこととは関係なくただ単につまらなくなってきているのか、アクセス数が低迷してきている。
それもそうだわな。星という有名人でも芸能人でも何でもないただの一般人が今日はこうだったとか、昨日はどうだったとか自分のことを書いても、そんなこと知りたくないんですけど、となるのは目に見えている。というか、致命的なことを言うけれど、もしもどこかにわたしと同じような感じのブログがあったとして、それをわたしが読むかどうかと言えばおそらく読まないだろう。
みんな自分のことで忙しい。自分のことが中心にあって、誰か他の人に起こった出来事だとか思いだとかに時間を割いているだけの余裕はない。もちろん、カウンセラーとか、ソーシャルワーカーとか、そういった、人と接することが仕事の人たちはそれは仕事なのだからやらなければならないわけだけれど、別にそういった職業ではない人にとっては誰かに寄り添うかどうかなんていうのは自由。強制されることではないし、それはその人に任せられていて委ねられていること。
でも、何か寂しくなる。あぁ、わたしのことにみんな(まぁ、一部の熱心なおそらく1~2名か2~3名の読者は除くとして)興味ないんだな、というのがここまで露骨に表されると、心臓をドスンと射抜かれる感じまではいかないけれど、少なくともチクチク、チクチクはしてくるんだ。
要するにわたしは人気者になりたい? なってみんなからちやほやされたいの? で、みんなから愛されて尊敬されて賞賛される。それを求めているのだろうか?
が、わたしにはどうやら人気者となる資質がそもそもないらしくて、ブログはパッとしないし、X(旧Twitter)もさっぱりだし、といった感じで才能ないのかなぁって本当思う。どうしてわたしが人気者になれないかと言えば、何かのスペシャリストでもなければ、何かで秀でているわけでもないからだ。みんな平均的。もちろん、普通の人よりは少しは文章が上手だとは自分でも思う。でも、それがずば抜けて突出してるかと言えば、まぁ、地味な感じでうまいよね、くらいで特段優れているわけでもない。
そんな何をやってもパッとしないわたしが最近出合った思想がある。それはバガヴァッド・ギーターの思想だ。バガヴァッド・ギーターとはインドの一大叙事詩であるマハーバーラタの中の一部のもので、インドが世界に誇る聖典。で、何でその話をしたかと言うと、わたしの抱えている悩み(とまではいかないけれど)がどうやらそれを実践すれば解決してしまいそうだ、ということに気付けたからだ。ヨガをやる人の多くが愛読しているというバガヴァッド・ギーターなんだけれど、それはともかくとしてその中でもこれは効くんじゃないかと思った考え方をここで紹介したいと思う。
行為に結果を求めない。行為のために行為をする。結果は神に捧げる。
このあり方、本当にわたしのストライクど真ん中なくらい効くあり方だと思う。なぜなら言うまでもなく、わたしは行為に結果を求めてしまっているから。これが苦悩の原因なんだと喝破するわけなんだ。そう、誰しもが何かをやる。行為をする。そうすると結果がどうしても欲しくなる。欲しいだけならまだしも、結果が出ないと、ついてこないとイライラし始める始末。毎日3時間読書をしている。毎日ヨガを1時間やっている。毎日これをこれだけやっている。だから、結果が得られて当然だし、それが得られなければ不当だ。絶対おかしい。間違っている。こんなに努力したんだから報われてしかるべき。と、こういった考えを持つと本当に苦しくなることを大昔のインド人、というよりもインドの神様は人間に教えてくださったようなのだ。人間の苦悩の一つである苦労が報われない、結果が出ないということへの不満だったり怒り。
けれど、考えようによっては物事というのは非常に複雑で、様々な原因と考えられることが絡んで絡んで本当に絡み合って起こっている。が、科学というものはそれを単純化して考えようとする。たとえば、卵を食べるとアレルギーが出るとしてみよう。そうするとこれは卵を食べたことが原因だ、とすぐに特定できるように思える。しかし、本当に卵を食べたことだけが原因かと言えば、そうとは言えないし、言い切ることはできない。なぜなら、卵を食べる前にそういったアレルギー体質にまでなってしまった原因というものが無数に挙げられるからだ。まず、その人がこの世にこの肉体を取って誕生していなければならない。そして、その卵を食べるまでの間に食べたすべての食物だったり、接した物質が影響を及ぼしている。あるいは精神的な影響だってないとは言えない。もしかしたら精神的な気持ちの持ち方も関係しているのかもしれない。それにその人は卵だけを食べているわけではないから、本当にそれだけが原因だと特定するためには絞り込んで観察しなければならない。または、非科学的で迷信だと言われるかもしれないけれど、何かスピリチュアルな目に見えない力が働いてアレルギーが起こったのかもしれない。ともかく、生活の全てが卵を食べることだけで成り立っているわけではないのだから、いろいろなことが影響してそれらが複雑に織りなされて今の結果が起こっている。だから、直接的な大きな原因としては卵を食べたことが原因なんだろうけれど、それだけだとは言えないんだ。何だかちょっと支離滅裂な感じがするかもしれない。でも、わたしはそんな風に思っている。
物事というのは一つの原因が一つの結果を作る、というほど単純ではない。だから、これをしたからああなった、こうなったというのとても短絡的なのだと思う。もっと言えば、前世でやったことが現在に大きな影響を及ぼしているといった可能性だって考えられなくはない。
行為のために行為をして、結果は神に捧げる。このバガヴァッド・ギーターで言うところの神とはキリスト教の神様とは違うところに注意が必要なんだけれど、どうやらその神というものはすべてらしいんだ。すべてが神様。神様は万物。だから、神様が海だとすると、海に起こる数多くの波が一人ひとりの人間であり、動植物であり、無機物であり、大地なんだということ。そう考えるとガラスのコップだって神様だし、わたしも神様だし、猫も犬も神様。神様が現象として違う形を取っている。
わたしにはこの結果を求めないというあり方がすごく刺さった。わたしの苦悩の原因。それは結果を求めるところにあったんだ。こんなにブログの記事を一生懸命書いたんだから、たくさんの人に読まれて当然。読まれない方がおかしいし、不当でさえある。でも、そういった執着としか言えないような、行為に結果を求めることを控えるようになってから何だか気持ちがすごく落ち着いてきた。と言いつつも、そのことはまだわたしの中に完全には染み込んでいなくて今染み込ませているところだからまだまだ中途半端ではある。けれど、変わってきたような気がする。
結果を求めるとは、別の言い方をすれば見返りを求めるとも言える。人に親切なことをする。ただそれに見返りを求めて、行為に結果を求めてしまった途端、急に心が乱れて穏やかではなくなってくる。相手に1000円の物を贈った。だから、相手からは自分に少なくとも1000円以上のものを贈り返してもらえなければダメだということになる。それを何もお返しがもらえなかったり、100円とか200円程度の物しか返ってこなければそんなのはおかしい、となってしまう。つまり、この行為に結果を求めること、見返りを求めることは交換と同じなのだ。これだけ頑張ったんだから、これだけ相手にしてあげたのだから、これくらいは結果が出て、これくらいは返ってきて当然だよね、という思考のあり方なのだ。でも、これって苦しい。物事ってそんなに単純ではないから、いろいろな要素が絡んできて純粋にこれだけやったからこれだけリターンが来る、とはいかないし、思い通りにはならないことが多いんだ。
わたしが最近始めたアシュタンガヨガも、いや、そもそもヨガ全般が何か見返りを求めてやるものではなくて純粋に突き詰めていくと、本当の自分自身という神様に捧げるものだということが分かる。とは言ってもヨガをやれば体はたくましくなり、精神も鍛えられ、不調は減り、心身共に充実して美しくはなってくる。でも、それだったら筋トレとかフィットネスと何も変わらない。あくまでもそれは入り口であって、真骨頂はそこではない。つまり、最終的な目的地はわたしが思うには、無私の境地へとたどり着くことではないかと。神に捧げて、どこまでも捧げて、わたしというものをなくしていく。わたしというものへのこだわり、執着、がんじがらめの心。そういったものを手放していく。そうして手放していって、手放すことさえも手放せた時に、ヨガをやるということさえも手放せるほどの状態になった時に悟れるんじゃないのかなぁとわたしは考えている。その時にはもはや、わたしというものは消滅しているのかもしれない。死んだから消滅したとかそういうことではなくて、本当に安らかで静かな境地になる。わたしが、わたしが。わたしの、わたしの、ではなくて、行くところまで行くとわたしというものが溶けていくのではないか。その結果、すべてのものと一つになる。そして、すべてが一つだということを実感できるようになる。わたしとそれ以外の存在との間の境界が溶けていき、何がわたしで何がわたしでないかが分からなくなる。そして、すべては母なる海へと帰るかのように、一なる存在へと帰って行く。
ここまで静かになれば、もはやブログのアクセス数が少ないだとか、SNSがうまくいかないなどと悩む必要がなくなる。すべては一つなんだ。だから、人気者になれても、なれなくてもそんなことは大したことではない。すべてのものは海の水が形を変えた波でしかない。その波であるわたしはただ自分が海の水であることを忘れず、波である自分こそがそれだけが自分なんだ、と思わないようにすればいい。だから、バガヴァッド・ギーターには石ころも宝石も何もかも等しいのだと悟ることが大切、といったことが書いてある。そう、すべては波なんだ。どの波が価値があってどの波が価値がない、とかいうことはない。ただ、みんな海の水が姿を変えて一時的に波であるだけでしかない、それらの間には優劣はない。
すべては等しく平等。石ころも宝石もありとあらゆるものが等しい。
というわけでバガヴァッド・ギーターにシビれている今日この頃なのであります。ってここまで書いてきたけれど、きっと多くの人には刺さらないはず。でも、この文章を読んでくれた人はいいことを知れたと思うんだけれどなぁ。アクセス数なんて気にしないでただただ自分のペースで、そう。アシュタンガヨガのマイソールクラスのように人生を歩んで行けたらと思う星なのです(黙々と人と比べずにやるべきことをやっていくような感じね)。
長くなりました(ここまで読むの大変だったでしょう)。読んでくれてありがとね。じゃあね。
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1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。