背伸び

いろいろエッセイヘブライ語
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 今年の夏は飛躍の夏にしたいと思い立ち、まるで夏期講習でも受ける受験生のように勉強しようと柄にもなく思い立ったわたし。というわけでヘブライ語をやろう。それも毎日少なくとも5時間はやってある程度のところまでものにしよう。そう思い立った。
 で、思い立つと即実行するわたしは昨日からこのハイペースな学習を始めたのだ。
 が、そうそう甘くはない。甘くはなかったのだ。語学の本で経験者が語るには8時間とか、そういった数字が出てきていたから、別に5時間なんて大したものではないと思っていた。けれど、それが間違いで5時間はやっぱり5時間だったのだ。
 5時間。1時間を5倍すると5時間。1時間の単純計算で5倍の時の流れ。
 初日はゼーハーしながらも何とか5時間やることができた。で、今日。2日目。2時間やったあたりから頭がパンクしそうな感じになってきて、そしてさらにソワソワして落ち着かなくなるという症状が現れ始めた。こ、これはわたしの中ではテンションが上がりすぎた時になるやつ、のようだ。これ以上やっても調子が悪いままだから、そそくさと切り上げて休んだ。で、その休んでいた時に母と話をしながらいろいろ考えたのだった。
 わたしは母に言った。「すごい人になれない」。すると母は「すごい人にならなくてもいいんじゃないの」と返す。たしかにそうで、別にすごい人になったところでそれが何だとも言えるのだ。でも、わたしはとても寂しい気持ちになっていた。5時間の勉強を1日やっただけでもはやノックアウトのように体調が乱れて崩れ落ちてしまうわたしがとても情けなく思えてきたのだ。たしかに今日だって頑張ればもっとできた。でも、体が悲鳴を上げていたのだ。
 わたしが人生の中で一番勉強した時期。それは小学校6年生の時だった。何も中学受験があったわけではない。ただ、その時の担任の先生が生徒たちをひたすら競わせたのだ。計算問題を何百題もやったり、漢字をひたすら書いたり、家に帰ってからみんな競うように、なかばおかしいくらいにみんな勉強していた。一番たくさん計算問題をやってきた子なんて1111題だった。わたしはだいたい、それに及ばず400とか500くらいだったけれど、それでもきついことはきつかった。小6の頃を思い出すと、言うまでもなく吐き気と戦いながら勉強をしていた。自分がほめられたい一心で脇目もふらずにひたすら家で漢字と計算ドリルをやる日々だったのだ。何だかそれをやっている時というのは担任の先生が示す価値観とか理想の姿に乗っかって、その中で優位を示せることがまるで自分の価値を上げる方法でもあるかのように思えていた。今思うと別にそんなことないのにって思うけれど。母がその頃のことを言うには、他の保護者のお母さんたちが子どもがひたすら勉強している様子を見て、あまりにもとりつかれたかのようにやるものだから心配していたらしい。頑張ることは素晴らしくて価値がある。その価値観自体を否定するつもりはないけれど、そんなに頑張ってどこ行くのってな話だ。
 本来勉強というものは頑張るためにやるものではなくて、何か目的(かなえたい目標だったり夢)を実現するためにやるものなんだ。わたしはヘブライ語ができるようになって旧約聖書を原典で読めるようになりたかった。そこまではいい。でも、ちょっとばかり階段を飛ばしすぎた。すぎた、と言いつつもまだ2日目のギブアップってな感じで情けない話ではあるのだけれど、それでもわたしにとっては5時間というのは負荷がかかりすぎていたようだ。
 5時間が無理そうだったら3時間にする。2時間、1時間にしてみると試行錯誤することには意味がある。当たり前のことながらも何か大きな目標だったり計画だったりを立ててしまうと途中で引けなくなってしまうことはよくある。でも、どんな大きな志であろうとも所詮は人生の中の一部でしかない。このことを忘れないようにしていきたい。その人生の一部でしかないものに食われてしまうか、それともしっかりとそれを自分が食うのか。どっちが主人でどっちが僕かということを忘れないようにした方がいいのではないかと思う。
 物事はやってみなければ分からない。そして、やっていく中で軌道修正することはよくあることだし、最初からドーンと大きな目標を何年も何十年も掲げ続けて直立不動というのも少々固すぎる。目標は変わっていいし、人間だって常に変わり続けているのだから、目標にしたって何にしたって柔軟にとらえた方がいい。
 若い頃は背伸びをすることも必要とは言うけれど、背伸びというのは無理をしている状態だ。でも、ほんの少しの背伸びならできそうな気もする。でも、明らかなつま先立ちのような(バレリーナみたいな?)背伸びは長続きしない。(さらなる背伸びはジャンプ、ジャンプってそれは背伸びじゃなくてジャンプだろ)。今回そのことが痛いほどよく分かった。でも、一つ分かったこともある。昨日5時間やってみて語学っていうのはかけた時間が大きいんだなっていう至極当たり前だけれど、今まで気付けなかったことに気付けた。これは大きい。努力は裏切らないんだ、とばかりに根性論に結びつけてしまうのはいかがなものかとしても、このやった分だけそれなりに効いてくるというのは語学における鉄則だと思った。
 人はふれているもの、読んでいるもの、囲まれている人、環境などによっていかようにも化ける。本当、化ける。まるでカエルとかカメレオンのように変幻自在に適応して色を変えていく。と言いつつもわたしの中で大切にしているものはそうそう変わらないだろう。けれど、それ以外のものはコロコロ、コロコロ面白いくらいに変わっていくんじゃないかなぁって思う。
 背伸びをしてみて続けていくっていうことの大切さをひしひしと感じた。続けるということは人生においてそのものが位置を占めるということ。多い少ないの程度はあるにしても。
 頭がつかれている~♪(何の歌だ?)というわけで今日はゆっくりしようと思う。背伸びは悪くないけれど、倒れるほどまでの背伸びはどうかなぁっていうのが今回の教訓。頭が疲れているので今日はこのへんで。失礼。

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