今朝、瞑想をした。そうしたら気付きが得られたので、ここでそれをシェアしたいと思う。以下は瞑想の後に綴ったメモ。
瞑想をしていたらケン・ハラクマ先生の本にあった言葉が浮かんできた。いつ命を取り上げられてもいいと思っている、といった言葉で、その言葉を味わった時、すごく解き放たれたような感じがした。そうか、わたしは自分の人生に、命というものにしっかりとガッチリと執着していたんだ。だから自分自身をより健康的に強くたくましく(知力や明晰さにおいても)しようとしていた。そして短命にはなりたくないと思い長生きするにはどうしたらいいかとそのことにエネルギーを割いていた。でも気付いた。短命よりは長命の方がいいけれど、自分がいつ死んでもいいと覚悟ができていればそのことにこだわらなくなるのではないか、と。
何かスッキリした。心につかえていたものが一気にはがれ落ちて身軽になったように思う。
いつ死んでもいい、か。長生きすることにこだわらない、か。
たしかに健康的なライフスタイルを送っていればおそらく長生きでき、人生を快適に送ることができるだろう。しかしわたしは今まで完全にそのことにとらわれていてこだわり続けていたんだ。本当に自由な心とは、自分の考えや意見はあってもそれを絶対なんだと考えない柔らかい心だと思う。絶対こうでなければならない。こうあらねばならない、というのはガチガチで固くて自由な心のあり方ではないんだ。自由であらねばならない、ではなくてわたしは自由でありたいし、いたい。
どこかわたしの中で健康であること、健やかであることがまるで当たり前のような、そしてねばならないmustになっていたんじゃないか。
極端な話、明日死んでもかまわない。長生きできるならしたいものだとは思うけれど、そのことにさえもこだわらず固執しない。これこそがまるで水のような自由でしなやかな生き方なんじゃないか。
もしかしたら、いつ死んでもかまわないと思える人がある意味最強なのかもしれないと思う。自分の命に執着のない人間、こだわりのない人間というのが。それが神様に委ねる生き方、自然に委ねる生き方なのだろう。人間どんなにあがいても死ぬ時は死ぬし、遅かれ早かれ100%いずれは死ぬのだ、だったらそのことにこだわらなくてもいいんじゃないか。もちろん苦痛はない方がいい。だから健康的なライフスタイルは続けていきたいとは思っているのだけれど。病気や障害を予防する。できることはやる。でもやれることをやったらあとは神様、自然、お天道様に委ねるでいいと思う。
「こうでなければならない」というあらゆる固いマインドを解き放てた時、人は自由になる。こだわりを完全になくするのは無理だとしてもそれらから自由でありたい。
あぁ、また自由に近付いてきた。
わたしたちはともすると1分1秒でも長く生きていたいものだと思う。しかも、健康な状態で。が、わたしは上のメモからも分かる通り、健康というものに完全に執着していた。しがみついて自分が健康でなくなること、そして最終的には死ぬことを無意識のうちに極度に恐れていたのだ。そのことに気付いてその執着から自由でありたいと思った時、転機が訪れた。と言うよりもわたしの心の中でそれらを自発的におだやかに受け入れることができたのだ。
と言いつつもわたしは朝食後にサプリメントを飲んだし、朝食はいつも通り体にいいものしか食べないし、と完全に神様や自然やお天道様に委ねることができていない。でも、わたしは聖人ではないからこの程度でいいのだ。完璧に手放そう、そして手放さなければならないと思うのだとしたらまたそれが執着となり自由と平安から遠ざかっていくのだから、この程度でいい。執着を完全に手放すだなんて凡人のわたしには無理だ。でも、かなり自分の健康とか命に対する執着を手放せたように思う。って、自分がまだピンピンしているからそんなことを言えるのであって、実際死にそうになったら限りなく執着してワーワー泣き叫んだりするのではないかとも思えなくもない。まだ余裕があるからですよ、ということなのかもしれない。ま、それはその時になってみないと分からない。実際そんな状況になっても平然としていられるのかもしれないし。
健康というのは本当にかけがえのないものだと思う。何をやるにしても健康な状態でないと難しい。仕事も勉強も家事も運動も何もかも健康でなければできないのだ。だからこそ、それが失われることを人は恐れる。不安にさえなる。けれど、そうした健康や自分の命への執着を手放せた時、人はまた一歩先の次の段階へ進むと思うのだ。この一歩は本当に大きな、とてつもなく大きな一歩だと思う。
自由とは絶対にこうだと主張してそれを譲らないようなガチガチの硬直したマインドとは対極にあるあり方だ。わたしはキリスト教徒でヴィーガンだからそれらが真理で正しいと思っているし、信じてもいる。でも、また別の人の視点に立てばこれらは誤りなのかもしれないとも思うだけの心の含みというかハンドルの余裕は持っていたいものだとヨガに出会ってから思うようになった。もちろん、何かについてこうあらねばならないというのは非常に重要なことだろう。法律を守ることとか、モラルを守ることとかこうあらねばということはある。でも、そうした人として最低限のそうした決まりだったりルールを守っているのだとしたらあとは基本自由なのだ。というか、法律や世の中のルールに楯突くつもりはないし、破ろうとも思わないのだけれど、それらだって絶対的なものではないのだ。だから自由であるとしたらそうしたものを認めつつもそれらでさえも絶対的なものではないとわきまえていて開かれた態度を取っている。そんなあり方でいたいとわたしは思っている。開かれていて柔らかい心。わたしはそんなあり方にとても惹かれている。
そしてそんな調子で人と争うことなどしないで穏やかに毎日を平和に過ごしていき、いつのことになるかは分からないけれど苦痛もなくポックリ往けたらいいなぁと思っているのだ。まさにポカポカ系、かつ柔和系な生き方をしていけたらなと。
甘いだろうか? 甘いと思われるのならそれでもかまわない。でも、わたしはそんな風に生きていきたい。のんびりとヨガでもしながらね。
こうあらねばならないを手放していき達観した境地になれたらいいなと思いつつ、凡人のわたしは生きるのでした。合掌。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。