わたしがヴィーガンになった理由

菜食
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 みんなそうだと思うけれど、肉食に理由はなくても菜食にはそれを選んだ理由がある。
 肉食という行為は小さな頃から当たり前のようにある習慣のようなものでさえあって、わたしたちの常識とか一般的と言われる意識としっかりと結びついている。染み込んでいて何も疑問を持たずにやってきたという人がほとんどだろう。
 でも、人生のうちでふと疑問に思う時が訪れる。自分は家畜を殺して食べているのだけれどそれってどうなんだろう、と。おそらく多くの人がそうした疑問を抱いたことはあるだろうと思う。そして、その度に何らかのもっともらしい理由を自分自身に言い聞かせてきたことだろう。
 わたし自身、この肉を食べることについてへの激しい違和感を感じたのは20代の前半の頃のことだった。何がきっかけだったかはよく覚えていないのだけれど、たしか倫理学だったかと思う。テキストを開いた時にその肉食や動物愛護などの思想と出会ったのだ。わたしは狼狽した。言うまでもなく自分自身が肉を食べているということ、動物を食べているということに対してたしかな正当化ができないように思えたからだ。今まで自分は正しく生きてきたと思っていた。何ら落ち度はなく倫理的な問題などもないまま生きてきたものだと信じてさえいて、疑ったことすらなかった。そんな無知というか、何も知らなかったわたしの脳天をがつんと叩かれたような、そんな衝撃がこの思想にはあった。
 次第にわたしは何も殺したくないと思うようになっていった。が、そんなことは無理だ。何をするにしても、わたしが生きているだけでそのためには他の生き物を大量に殺さなければならない。本当に不殺生を守ろうとするのであれば水だって飲めない(水を飲めるようにするためには雑菌や微生物を消毒などして殺さなければならない)。そして、わたしが生きていることがただただ申し訳なく思えてきて、自分がまるで屍の大きな大きなピラミッドの上に立っていて、自分のために犠牲になった生き物たちを踏みつけている。そんなイメージがまとわりつくのだった。で、そんな調子では健康的な生活を送れるわけなどなくて、わたしは自分を納得させるための強烈な論理をほしいと思った。と言うよりも、そうした強固な思想がなければわたしは餓死して死んでしまう。危機感を覚え始めた。そして、はたと気が付いた。「みんな殺しているじゃん」と。どんな生き物であっても必ず殺している。それが些細なものにすぎないのか、明らかに表立ったものかは別として。エネルギーを取り込むためには食べなければならない。となれば殺して食べる必要がある。牛さんも豚さんも鶏さんも殺しているじゃないか。植物という生き物を平然と殺しているではないか。そうしてこの思想にたどり着いたわたしはとりあえずの問題の解決を得て普通の暮らしを送れることになったのだった。
 それから20年近く経った現在、またこの肉を食べることについての問題を蒸し返した、というと表現が悪いから言い換えるとして、また再び考えるようになったのはヨガがきっかけだった。ヨガで一般的に言われているのは、体を軽く保って心を澄み切った状態にしておくには肉食はあまり勧められない。菜食にした方がいい。肉は重くて消化しづらくてそのためにエネルギーを浪費してしまうし、体も重くなりヨガを深める妨げとなる。心も肉を食べると攻撃的になり荒々しくなるから、菜食の方がヨガを深めるには向いている、といった菜食がヨガにはいいという考え方だった。現にヨガの先生や熱心にヨガをやっている人には菜食の人が多いらしく、ヨガの雑誌などにはヴィーガン食などの肉を使わない食事のことがよく取り上げられている。
 最初はそうした肉食のデメリットをなくして菜食の恩恵を受けようといういわば実用的な側面からわたしの菜食への移行は始まった。
 実際、試しに肉を食べるのをやめてみると、わたしの中にあった攻撃性や衝動性がみるみる消えていった。そして、平安というか穏やか気持ちになってきて、人と争ってやっつけて勝とうとか、陥れようとか、そういったネガティブな感情がなくなってきた。頭もスーっとグチャグチャしなくなって落ち着いていてとても冷静に物事を考えられる。以前よりも冴えわたっているような感じさえしてきたくらいなのだ。これは浄化されているということなんじゃないか、とわたしは思った。肉を食べなくなったことによって体も心も確実に浄化されて、きれいになってきている。
 菜食によって自分自身が浄化されていい方向へと向かっていることに喜んでいたわたしは、さらにヨガの思想であるアヒンサーと出会う。アヒンサーとは非暴力のことで、言葉においても行動においても他の人や生きとし生ける生き物を傷付けないというあり方のこと。この思想と出会って肉食の問題点というか、明らかに動物たちに暴力を加えているということに開眼させられたのだ。とは言えども、もしも100%完璧にアヒンサーを守ろうとすれば死ななければならなくなる。何も殺さないことは何もできないことを意味していて、餓死することになるからだ。でも、100%は無理でもその方向でやっていくこと。他の人や他の生き物への暴力をできるだけ減らしていくこと。それだったできるのではないか、と気付かされたのだった。
 よくある議論というか、反論としては非暴力は意味がないんじゃないかというものだと思うんだけれど、100%完全に非暴力が守れないからといって、じゃあ守れないんだったら好き放題やっていいか、というとそれは違うと思うんだ。それはまるで100%禁酒とか禁煙が守れないからということを理由としてお酒飲み放題、タバコ吸い放題でもいいんじゃないか、という考え方と同じで、たとえ完璧に守れないとしてもその方向性でやっていって守ろうとすることにこそ価値があり意義がある。
 菜食について学んでみると、これほどまでに動物たちがひどい目にあわされているのか、ということが痛いほど分かった。もはや、ヨガに菜食がいいから菜食を選ぶ、などといったレベルの話なんかは言っていられなくて、倫理的に明らかに肉食は容認できないという結論にたどり着いたんだ。
 動物たちは苦しんでいる。安くて大量の肉を消費者に提供するために家畜たちは劣悪な環境に置かれている。狭いところに閉じこめられてのびのびと過ごせないし、命ではなくて完全にモノとして扱われている。
 卵用鶏のオスはひなの段階で殺処分されるし、卵を産む鶏は卵の産みすぎで骨粗鬆症になり骨はボロボロ、狭い所に閉じこめられる鶏はストレスから他の鶏をつついたり、共食いなどをするようになるためあらかじめくちばしを切られるし、卵用鶏はバタリー・ケージという狭いケージの中に何羽も詰め込まれるし、ブロイラーと呼ばれる肉にするための鶏は短期間しか生きることができず育ち次第殺されるし、乳牛の母と子は引き離されてその母牛はショックのあまり悲しむし、お乳を出せなくなった使い物にならなくなった乳牛は殺されるし、乳牛はお乳を搾るために何回も妊娠・出産させられるし、乳牛にオスの子牛が産まれれば子牛肉にするために殺されるし、肉牛も寿命を全うすることなどできないし、メスの豚は妊娠している間狭い柵の中に閉じこめられるし、豚は尻尾を切られるし、そして何よりも用なしとなればどの動物であっても平然と殺されるし、どの動物も肉をとるために屠殺される。また、こうした劣悪な所などではなく、配慮がある良好な環境でどんなに幸せに動物たちが暮らせたとしても、その先には殺されて肉にされるというおぞましい未来が待っている(快適に期間限定で何不自由なく生活させてくれるけれどもその期間終了後に殺されて肉にされるということを望む人はいないだろう)。そして、殺す時にまったく苦痛を与えないというのは無理な話のようで無痛というのは不可能だ。できるとしたら麻酔でもして完全に痛みの経路を遮断するくらいしかできまい。少なくとも安楽死とか無痛死させて肉にするわけにはいかないのだから原理上から言っても無理な話なのだ。
 こうした動物たちの苦しみをなくしていくにはどうしたらいいのか、と言えば、一番手っ取り早く一番効果があり確実な方法は肉を食べるのをやめることだ。この最も基本的なことから始まり、このことで終わる。それだけ。なぜならこれだけ巨大な産業(酪農、畜産)が存在していて営まれているのはやはり買う人がいるから。買う人がいなくなれば、いなくなっていけば産業は縮小していくし、活気だってなくなっていく。つまり、動物たちを苦しめているのはわたしたちであり、そして動物たちを苦しめるのをやめることができるのもわたしたちだけなのだ。だから、わたしたちの今後のあり方、行動にすべてがかかっていると言ってもいい。
 わたしはまだ駆け出しのヴィーガン(完全菜食主義者)だ。でも、やっとというか40歳を目前として20代の頃のわだかまりが溶けたような気がしている。
 もちろん、じゃあ植物を食べるのもやめるべきだとあなたはわたしに言うかもしれない。でも、そこまであなたが言うのだとしたらそういうあなたはどうなんですか、と逆に聞き返したい。植物はもちろんのこととしてお肉も食べているあなた。あなたは肉食をすることによってそのエサとして大量の植物をヴィーガンの人たちが消費する以上に殺しているし、その上にさらに動物たちを搾取して殺している。ヴィーガンを批判して否定できるのは本当に汚れのない植物さえも食べていない人だけだとわたしは思う。その人はあまりに高邁すぎて餓死してもはや故人となっている。そういう人から植物を食べることを批判されるのなら話は分かる。けれど、植物はおろか動物も食べている人から菜食を批判されるのはどうもその人にその資格がないように思えてならない。厳しすぎるだろうか。厳しいかもしれない。でも、わたしはこう思うのだ。
 今回わたしがヴィーガンになった理由を書いた。きっかけというのは意外なところからやってくるものだと思う。そして、そのきっかけというのは人によってそれぞれ違う。この文章が菜食を意識するきっかけとなり、自分自身を見つめ直す手助けになったらわたしは嬉しい。

 <オススメの本>
 
シェリー・F・コーブ『菜食への疑問に答える13章 生き方が変わる、生き方を変える』(新評論)

 この本は著者が菜食への疑問に答えていくという形で書かれていて、とても論理的で理屈が明快で分かりやすい。カッチリと理詰めでヴィーガンの立場を擁護している良書だと思う。ヴィーガンとか菜食とか何も知らない人、ただ何となく興味を持った人、ヴィーガンになってみたものの自分の立場をしっかりと説明できない人、ヴィーガンの思想全般とその要所を理解したい人などに向いている。菜食の思想の初心者のファーストチョイスとしてもいい。ちなみにわたしはこの本を読んでヴィーガンになることを決意した。そういう意味でわたしにとっては決定的な影響を受けた力のある本。

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