自分の人生の責任を負っているからこそそれは美しく光り輝く

いろいろエッセイ
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 ヨガの人はヨガをやることを人々にすすめる。アーユルヴェーダの専門家は人々にそれをすすめる。スローライフ信奉者はスローライフを、などととにかく自分がいいと思ったものを他の人にすすめる。その言葉に従ってわたしもいろいろ試してみたりはするのだけれど、最終的にわたしには軸がないせいなのか、あれもこれもどれもと取り入れようとしてこのわたしの中でちぐはくになってしまって困ることがよくある。もちろん、ヨガとアーユルヴェーダとスローライフは重なるところもある。けれど、そのすすめている人の立場というか立ち位置からのアドバイスを真面目に守ろうとすると混乱してしまうのだ。
 そんな時、どうしたらいいのだろうと途方に暮れてしまう。全部実践したいなどというのは無理な話でそれは欲張りすぎだ。
 ヨガにしてもどの程度自分の生活の中に取り入れるかというのは難しいところで、プチ不調を軽減させるために気分転換程度に取り入れるか、それともガッツリ修行のごとくやるかによって、その力の入れ具合も変わってくる。
 わたしたちはどこかにその答えがあるものだと思ってしまう。ネットで検索したり、本を読めば、あるいは人に聞いたりすればいいんじゃないか?、などとどこかにその答えがあるのではないかと思ってしまう。けれど、そんなものはおそらくない。自分が答えを出していく上でのヒントだったり参考になる意見や考えはあったとしても、これが答えだというものはない。
 今日、アカリ・リッピーさんのアーユルヴェーダの本を読んでいたらそんなことを思った。答えというのは自分で見つけて出していくしかないんだな、と。わたしが週にどのくらいの頻度でどれくらいの時間をヨガにあてるか、などということはわたしの自由であってわたしに任されていること。それは分かっている。でも、誰かに「あなたの人生にはヨガを毎日2時間やることが必要だからさぼらずこのことを続けていきなさい」と決めてもらえたら楽だろうなと思う。自分で考える必要がなくて、ただその人が全部自分のやるべきことだったり、生き方だったりを決めてくれる。わたしはそれに従ってやっていくだけ、なんていうのだったらどれだけ楽ちんなことか。そして、わたしの人生の責任はその人がみんな負ってくれて何か問題が生じたらみんなその人に落とし前をつけてもらう。責任を取ってもらう。うむ、楽だ。
 でも、そうなったらわたしは命令に従うだけの機械とかロボットと変わらないことになる。自分の意思なんてなくて、ただ言われた通りにやるだけ。そんなの楽しいか? それにそのわたしの人生の責任をすべて取ってくれる人はわたしのためを思って、わたしがやりたくないけれど、それでもためになるだろうことをやれと言ってくるとしたらどうだろう? あなたのプロポーションを良くするためには毎日腹筋、腕立て伏せを最低でも50回やることが必要です、とか頭を良くするために毎日8時間は読書をしなさいとか。
 そうなったら次第に嫌になってくるだろう。「わたしはそれをやりたくない」などと言うにしても人生の責任を自分で負わずにその人に負わせている以上、自由などといったものはない。
 結局、何かを決めて何かをやったり、何かをやらないという風に選択して行動することは最終的には自分で責任を負うことを意味する。時々、わたしはこの責任という荷を放棄したくなるのだけれど、「じゃあわたしがその責任を負いますからあなたはわたしの命令に従いなさいね」となるのはもっと嫌だ。わたしが気分転換程度にしかヨガをやらないにせよ、あるいはガッツリと毎日長時間かけてやるにせよ、その責任をわたしが負うからこそそれは意味を持つのだ。
 わたしは自己責任という言葉があまり好きなほうではない。けれど、わたしの人生の責任はわたしが負うしかない。いや、誰かにこれを丸投げしたらそれはわたしの人生ではなくなって、その責任を負う人にとっての人生になってしまう。だから、わたしが決める。わたしの人生をどう過ごして、何をやり、何をやらないか。何を大切にして何を軽んじるか。だからこそ、その決断はよく考えなければならない。わたしの大切なかけがえのない人生なのだから、決して適当に決めてはならない。誰々がこう言っているから。何となく、ではなくて自分でしっかりと決めたいものだと思う。
 適当に人に流されて決めたことが必ずしも悪い結果をもたらすかどうかと言えば、そうとは断言できない。けれど、そういう決め方をしていると自分の人生が適当な感じになってどうでもいいものになってしまう。人生そのものがどうでもいいのであれば、それでもいいかもしれない。でも、それって寂しいよ。
 自分で決めたことがいい結果をもたらすのか、それとも悪い結果をもたらすのかどうか。それは乱暴なようだけれど実際にやってみないと分からない。自分が今二人の人のうちどちらと結婚したらいいかと悩んでいるという話だったら、2回人生を送って両方と1回ずつ結婚生活を送ってみなければ、どちらがいい決断だったのかということは分からない。でも、それを言い出すと現実的ではないから良さそうな方を苦渋の決断として選択する。同じようにわたしのヨガもどの程度やるのが最終的にわたしの生涯においてベストなのかというのは選択肢をすべてやってみなければ分からないのだ。けれど、そうなると何回分もの人生が必要になる。それは無理、ということで慎重に決めることとなる。
 生涯を終えようとする時、果たしてこの人生の送り方で良かったのだろうかと思うのが一番苦しい後悔であり疑問だと思う。しかし、後悔したところで過去を変えることはできないのだから、良しとするしかない。わたしは人生の終わりに何を思うのだろうか、とふと考えたりもする。その時、後悔したくない。そんな思いからわたしは今を充実させようとしてしまう。でも、わたしがどんな人生の送り方をしても、つまりは後悔するようなことをいくつもしてしまったとしても、終わりにはきっとすがすがしい気持ちで美しい思い出となった過去を眺めているのだろうと思う。
 たとえ自分の人生が何も輝きがなかったもののように思えてしまったとしても、わずかであれ光り輝いていた瞬間は誰の人生にも必ずある。その光り方がどんなにかすかなものであっても、わずかな時間しかきらめいていなかったとしても。
 宇宙の長い長い時間の中ではわたしたちの人生など瞬きにもならないほどのものでしかない。でも、一瞬を、この瞬間を光輝けたら。そのためにわたしたちは生きている。最近わたしはヨガをやっている時、自分がまばゆいばかりに光り輝いている。まさにキラキラしている。そんな瞬間を感じる時がある。それこそが今を生きるということではないだろうか。それもこの今というダイヤモンドよりも尊いこの一瞬にもならないまさに瞬き。この瞬間の躍動。生の輝き。命がキラキラと光を帯びる瞬間。錯覚?、なのかもしれない。でも、わたしはこのきらめきを感じるんだ。自分の命が光り輝いている瞬間をね。
 みんな、この一瞬の瞬きを感じたくて生きているのかもしれない。この輝きはきっと何かを主体的にやっている時にしか感じられないのだと思う。何となく。誰々さんが言っているから。やりたくないけれどやらされているから、では立ち上がってこない輝きだと思う。自分の人生の責任を負っているからこそそれは美しく光り輝くのだ。きっと。

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