いろいろあったけれど、教会生活を続けることにした

キリスト教エッセイ
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 前回、ブログを更新してから一週間あまり。「教会へ行きたくない」「ヨガをやってまた教会へ行きたくなった」と書いてから一週間。この間もわたしは時を過ごしておりましたよ。バッチリというか、時を過ごしておりました。
 昨日はイースターだった。そして、わたしは母と一緒に教会へと行った。イースターということで簡単な祝会も教会では行われて、それはそれは皆さんでお祝いしたんだ。が、イースターの日のめでたい日であるはずの説教なのにわたしの心にはほとんど響いてこない。これは牧師の説教に問題があるのではなくて、わたしに問題があるのだろうと思わざるをえない。わたしが、このわたしが変わってしまったようなのだ。
 教会へ行きたくない→また行きたい→行くのが億劫。気が重い→とりあえず行ってみよう、てな感じで昨日あまり気乗りしないけれど行ってみた教会。なぜあなたは教会へ行くのですか、と直球の質問を投げつけられたらわたしは答えられない。さぁ、何ででしょうかねぇ、というのが本音のところなのだ。何ででしょうかねぇ、ってあなたそれでもクリスチャンなの? 信仰生活に教会生活に喜びとかないの? そう言われましてもねぇ。6年目ともなれば新鮮さはすでにないのです。あるのはただ同じ牧師に、同じような説教に、同じようなメンバーとまさにマンネリ気味。
 でも、礼拝に喜びは感じられないけれど(それだったら教会に行かないほうがいい、とか真面目な人からは言われそうだな)、わたしがそれでも教会へ行くのは仲間がいるから、なのかな。って主体性のない答え。断じて主体性がないですね。わたしは自己肯定感の低い人間だから、誰かから気遣ってもらえたり、心配されたり、仲間として扱ってもらえたりなんかするとすっごく嬉しくなっちゃうんだ。仲間がいて、その仲間がわたしを必要としてくれているから。それがなぜ教会へ行くのかっていうことのわたしなりの現時点での答えだったりする。まぁ、心許ない答えであることは重々承知している。それじゃあ、仲良しサークルに参加しているようなものじゃないですか、とツッコまれることは確実。でも、これがわたしの答えなんだ。誇張も何もしていない、何も飾りたててもいない、ありのままの素直な気持ちなんだ。とはいえ、いろいろな意見の方がいるだろうから、そんなんじゃ神様に失礼。心から神様を礼拝しようという気持ちがないのだったら教会へは行かない方がいい、などと辛辣な意見を持たれる方もいることだろう。でも、もしも教会へと神様を目的としてではなく、そこに集う人たちを目的として行っているという形であっても、別にそれでは失格だとかそういうことはないと思う。中にはあまり感心できないけれど、教会の人たちがやさしくて自分の話を聞いてくれるから、といった理由で毎週教会へと行っている人だっているんだ。もしも教会という場所が単に礼拝を捧げる場所でしかないことを徹底するのであれば、礼拝後の雑談なんてもってのほかで、礼拝をしたら何も話をしないでさっさと帰ればいいのだ。でも、うちの教会では結構たくさんの人が礼拝が終わってから話に花を咲かせる。それは礼拝がメインではあるものの、教会という場所が社交の場としても機能していることを意味している。
 牧師の説教が心に響いてこないことが悩みのわたし。でも、牧師のその説教が神様がわたしに語りかけてくださっている神様のことばだと信じるのであれば、その響いてこない、むしろ気持ちをかき乱される説教に何か神様からの深遠な深い、深~いメッセージがあるのではないかとも考えることはできる。このブログにもたまに登場する教会員のOさんの考えに従うのであれば、すべてが神様からのメッセージなのだ。だから、神様が今、この逆境だったり困難だったり、つらく苦しいことから何を教えてくださろうとしているのかと自分はいつも考えるようにしている、とOさんはよく言う。すべての物事には必ず意味がある。何かの意味は必ずある。だから、その神様からのメッセージを聴こうとする。何を教えてくださろうとしているのだろううか、と謙虚に考える。考えて感じ取ろうとする。それこそが大事なことなのだ。
 ともかく、教会員のある方がわたしに「星さんはきっと何があっても教会とはつながり続けていって死ぬまで離れることはできないと思う」とまるで予言か何かのように言ったその言葉の通り、わたしはもしかしたらもう教会からは離れることができないのかもな、と思ったりもする。もう嫌だ。行きたくない。教会なんて行く気がしない、と思ってもまるで牛や馬が手綱を付けられて連れて行かれるかのように、教会へと引かれていくのだ。そして、それがあまり乗り気でなかったとしても、マンネリ気味で魅力を感じることができなくなっていても、教会という力から離れることはできない。まるで磁石に吸付けられている鉄か何かのようにくっついてしまって自らの力でそこから別の場所へと行くことはできない。また、やっと離れた、と離れたつもりになっていても、洗礼を受けたという事実はこの人生において消し去ることはできない入れ墨のようなもの。だから、どんなに信仰心を失ったり、教会生活からドロップアウトしたとしても、クリスチャンであるということには変わりがないし、そういうわけでもう何をどうしようともわたしは離れられないのだ。
 とはいえども、わたしは最近さらにヨガやインド哲学など異教的なものにさらにひかれてしまっている。これは迷いなのか、それともヨガやインド哲学であっても神様経由のものだから心配ないのか、そこのところはよく分からない。でも、これはわたしの人生なのだから、わたしが主役なのであり、わたしにこそ自分の人生をどう歩んでいくかを決める権利がある。
 最近、ヨガに時間を費やすようになり、心身ともに充実してきた。心は安定してきておおらかになり、不調も少なくなり、余裕も生まれてきた。体もしなやかに美しくなってきて、本当いいことずくめ。この調子でヨガを続けていけたらと思っている。
 教会へなぜ行くのか? 今のわたしの答えは模範解答、優等生的な解答とはとてもではないけれど言えない。でも、そんなある意味、中途半端で不完全で他の人にいわば流されているような、そんなわたしであっても、わたしはわたしなりにベストを尽くそうとしている。そのことは疑いようがないことであって、その点においてだけは最善の、そして今できる限りの最良の解答ではないかと思う。
 神様、わたしは本当に至らない者です。ダメダメな者です。でも、だからこそ教会という場所が、特にあなたの僕である他の信徒たちとの交わりがわたしには必要なのでしょう。どうか、神様、わたしの人生を照らし出して導いてください。

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