わたしたちはつい他の人に強引に「こうしたらいいよ」「こうすれば良くなるよ」って相手の様子などおかまいなしでアドバイスを押し付けてしまう。よくある光景というか、何というか。
人はアドバイスをする。それは相手に幸せになってほしいから。良くなってほしいから。良くなってもらって幸せに近付いてもらいたいから。
でも、わたしは思うんだけれど、誰かを幸せにすることなんてできないと思うんだ。えっ? 幸せにすることができない? 何をおっしゃるんですか、星さん。人は人を幸せにできますよ。何、当たり前のことにつっかかってるんですか。
わたしは相手を幸せにできるのは、相手であるその人だけ、その人自身だけだと思う。これは最近たどり着いた結論。星の極論。いかなる意味か? それはどんなにこのわたしが全力でその相手のために何かをしても最後にはその人がそれを受けてそれを幸せだと思うかどうかを決めるということ。
たとえば、わたしがある人を喜ばせたくて、もっと言うなら幸せにしたくて、一生懸命腕によりをかけて絶品料理を作ったとしよう。その料理はおいしい。これは絶対喜ぶはずだ。喜ばないわけがない。絶対これによって相手は幸福感に包まれるはずだ。そう思ったとしよう。でも、その絶品料理をどう判断してどう評価するかはその相手次第で、わたしは料理を作ることまではできたけれど、それから先はその人に委ねられていて任せられている。わたしがどうこうすることはできない。やれるだけのことはやった。あとはそれをその相手がどう受け取ってくれるか、そのことだけ。そして、そこからさらに進んで幸せだと思ってもらえるかどうか。幸せだと感じてもらえるかどうか。
アドバイスもこれと同じで、自分がどんなにいいアドバイスをしたつもりでいても、それを「いいアドバイスだなぁ。幸せに近付いていくなぁ」と思ってもらえるかどうかというのは分からないことなのだ。反対に、良かれと思ってしたアドバイスで激怒されてしまうことだってないとは言い切れない。
何がいいアドバイスで、何が良くないアドバイスなのか。明暗を分けるのが、自分には相手を幸せにする手助けしかできないとわきまえることができるかどうかということ。幸せはその人が感じるものであって、幸せかどうか決めるのはその人。その人の領域の話。だから、「何かわたしにあなたが幸せになるお手伝いができませんか?」という姿勢で相手に臨むのがいいと思う。わたしができること。それは相手が幸せだと思う手助けをすること。
昔の逸話にこんな話があった。馬かロバに水を飲ませようとそこまで連れて行くことはできる。でも、飲ませることはできない、という話。わたしはこのお話をさらに広げて考えて、その馬、あるいはロバがその水を飲むかどうかを決めるのもその本人次第だし、そしてその水をおいしいと感じるかどうかというのも本人次第であって、本人以外がそれを強制することはできないという教訓を得ることができるのではないかと思う。水を飲むのも、それをおいしいと思うかどうかも、さらにはそうしたことも含めて自分が幸せ者だと思うことができるかどうかも本人次第。だから、まわりの人たちはそれを手助けすることしかできない。
具体的にはお金を与えたり、生活環境を整えたり、何かプレゼントを贈ったり、言葉をかけたり、ありとあらゆるその人を幸せにするようなことをしたとしても、それを迷惑だとその与えられた人が思えばそれは迷惑以外の何物でもないし、それらによって自分が幸せだと思えなければその人は幸せではないのだ。誰かが幸せは自分の心が決めると言っていた。まさにその言葉の通りで誰かを幸せにするなんて大それたことはできないんだ。できるのはお手伝いをすること。手助けをすること。できるのはそこまで。幸せは本人以外に感じることができない代物で、こればっかりは無理矢理感じさせることはできない。まぁ、お金とか家とか土地とか建物とか車とか、高額なものは多くの人が贈られて喜ぶことが多い物ではあるけれど、それだって喜ばない人はいると思う。「わたしを買収しようとしているでしょう? わたしをお金で説き伏せようとしているでしょう?」とか難癖つける人も少数ながらもいると思うからね。
だからこそ、だからこそ本人が乗り気でないことをしきりにやるようにすすめるというのはいただけない。それは水を飲みたくないロバを無理矢理、湖に連れて行こうとすることに等しい。ロバはのどが渇いていない。今は水を飲みたいとは思っていない。それなのに「湖に行こうよ。行けばおいしい水が飲めるよ。そうしたら幸せになれるよ」と乗り気でないロバに嫌がってさえいるのに、すすめ続ける。ロバはのどが渇けば言われなくても湖へ行くことだろう。本当にそのことが必要になり、「どうしても湖へ行って水が飲みたいんだ」と本人が思うようになれば、むしろ積極的に「湖へ行くにはどの道を行ったらいいでしょうか? できたら連れて行ってもらえますか?」とそのアドバイスしたがっている人に自分からお願いすることだろう。ましてや、そのアドバイスしたがる人が「湖へ行けばあなたの周りの人たちがあなたを見直してあなたを尊敬しますよ」とか「湖へ行けば周りの人たちが喜んでくれますよ」などと目の前にニンジンをぶらさげて、そうするようにと誘導する。でも、それでもそのロバは湖へは行きたくない。だって、のどが渇いていないから。行きたいと思えないから。それでもしつこく「行こうよ、行こうよ。湖へ行こうよぉ」とまるでハエか何かのようにたかり続けたらその人はそのロバから反撃として「うるせーんだよ」とかみつかれたり、後ろ足で蹴られたりするだろうと思う。
自分は誰かを幸せにすることはできない。できるのはそのお手伝いをするところまで。その謙虚さを忘れないようにしたい。だからこそ、無理強いしたり、押し付けたりしてはいけない。当たり前、当たり前な話。つい自分のアドバイスを押し付けてしまう。あなたにもそんなことありませんか? わたしは本当ありまくりなのです。気を付けようっと。
わたしは精神障害者で吃音がある40代の男です。
教会を離れたプロテスタントのクリスチャンです。6年くらい教会生活を送りました。
キリスト教神学を勉強したり、ヘブライ語もやってみたりとすごく熱心な信徒でした。
毎週のように礼拝には休むことなく参加して、教会の集会にもほぼすべて参加していました。
今はヨガの道場へ通ってヨガの練習をしています。
毎日、瞑想もしています。
最終学歴は高卒で20代の頃に大学を中退しています。
福祉の勉強をしていたのですが、精神的な不調になり中退しました。
それから仕事などに就くこともなく現在に至ります。
また、放送大学で心理学を勉強しようと入学しますがそれも中退。
金銭的な理由と心理学への興味関心がなくなったのでやめました。
資格はたしか中学生の頃に英検3級を取りました。
でも、英語はほぼ忘れたのでEnglish,I don’t knowです(笑)。
資格はそれ以外にはないです。なかなかのフル装備です。
どこにでもいる平凡な人ですがエッセイを書いてこのブログで発信しています。
「無職が何を言っても説得力がない」とか「働け」などとある人から言われましたが、生きているだけでもいいと思っています。
まずは生きていること。死なないこと。
そこからできそうならステップアップしていきましょう、というわけで今はヨガとかお料理などを一生懸命やっています。
というわけで今ステップアップしようとしているところです。
最近、HSPの本を読んでどうやらわたしがそうだということが分かり、あぁやっぱりなと思いました。
人の言動から影響を受けやすくて、刺激に対して敏感な感じで、騒がしい場所や大きな音などが苦手です。
街などで2時間とか3時間くらい過ごすとだいぶ疲れる感じです。
集中力も長くて1時間半くらいしか続かなくてそれ以上続けると調子が悪くなってきます。
あとパソコンとかの画面が苦手で長い時間やっていると決まって不調になります。
毎日のようにヨガの道場へ行き1時間半くらいの練習をほぼ毎日のようにしています。
しかもそのやっているヨガがあの運動量が多くてきついと言われているアシュタンガヨガだったりします。
たしかに楽ではなくてそれなりにきついのですが、練習が終わるとものすごく調子が良くなって気分も上向きになってスッキリします。
心身共に強くたくましくなってきて精神的な不調になることもだいぶ減ってきました。ヨガから不思議な力を感じています。
このブログのアクセス数はさっぱりですが、それでもわたしは幸せです。
と言いつつも、ちょいちょいアクセス数がどうだのとぼやいたりしてはいますが。
ちなみに彼女募集中(?)です。