幸せな悩み

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 今日は日曜日。わたしは、絶滅危惧種なのかもしれない毎週教会へ行く人。由緒正しき正統派クリスチャンなのだ、と思う。
 礼拝の説教を聞いていたのだけれど、どうも心に響いてこない。牧師の話が難しすぎるとかそういうことじゃなくて、何だか話が相変わらずネガティブなのだ。悲哀というか、暗くてどうも聞いていると気持ちがめいってくる。
 今朝もアーユルヴェーダ的なセルフケアやりましたよ。舌磨きに白湯飲みにオイルマッサージにそれからシャワー。で、さらにヨガまでやってまさに気分は上々。
 が、この説教。気持ちが~くら~くなっていく。
 わたしは思う。幸せな人間があえてこの世の暗い面をじっと見つめて気持ちをふさがなければならないのだろうか、と。この世には、社会には問題がたくさんある。それも目も覆いたくなるような問題が山積みされている。でも、それってみんながみんな見なきゃいけないことなの? 自分の幸福感を犠牲にしてまでも見なければいけないことなの?
 わたしは冷たい薄情な人間なのかもしれない。苦しんでいる人なんて見ないようにして自分が気持ちいいままでいたいと言っているのだから。でもね、この世には必ず不幸な人っているよ。だって80億も人がいれば一定数の不幸は出てくるものじゃないすか。
 聖書には100匹の羊がいて、そのうちの1匹でも迷い出ればそれを残りの99匹をその場に残してでも探しにいく、っていうイエスさまのたとえ話があるんだけど、言うならばその99匹は何も問題なんてないわけなのです。でも、その99匹はそこで待っていなければならない。
 って何を言いたいかといえば、幸福な人はそれでいいんじゃないの、という話なのだ。あえて、不幸な人ばかりを見て、不幸な人の情報をかき集めて、くらい、くら~いお顔をしていなくてもいいんじゃないの、っていう話だ。こんなことを言うと人でなしなんて言われてしまうかもしれないな。でもね、だったらね、日本で自殺者が年間2万人くらい出ているからと気持ちを落ち込ませてその人たちのために24時間365日喪に服してひたすら彼らの苦しみを自分のことのように思えばいいの? 違うよね。わたしもあなたも幸せになっていいし、誰か不幸な人のために不幸にならなくてもいい。それにそんなことしてたら絶対メンタルおかしくなるし、体の病気にだってなっちゃうんじゃないの?
 ネガティブな礼拝の説教。おそらくわたしが逆境に立たされてもうどん底まで落ちてどうしようもなくなったら、その時に始めて本当の意味で響いてくるんだろうな。今は元気すぎる。心も体もこの説教を聞くには元気で健康すぎるんだ。これって本当、幸せな悩みだなって思う。
 お、もう30分か。あっという間だったな。というわけで今日はこのへんで。じゃあ、またね~。

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