人気ないから

 今朝ヨガのDVDを再生してヨガをやろうと思ったわたし。テレビの電源を入れて、ビデオの電源も入れて、と。となるとたまっているビデオが気になる。録画したものの見ていない番組がたまっているのだ。
 で、全部見ているとヨガをやる時間がなくなってしまうので、最初のさわりだけでも見ようと思って、広末涼子さんが出ている録画した番組を再生し始めた。わたしにとっては三児の母と言えども、愛しのヒロスエ様であって、彼女を見ている時、わたしの脳内では快楽物質がどんどん凄まじい勢いで放出される。何せ、わたしのファン歴は長いのだ。とは言えども、熱烈なファンで彼女の公開された情報をすべて網羅しているとか、そこまでの猛者ではないのだけれど、それでもぼちぼち彼女の動向を追い、自分のできる範囲で彼女を応援してきたのだ。まぁ、中途半端なファンという形容が一番しっくりくるだろうか。
 ふむふむ、広末さんは家族に対して愛情表現は欠かさないようにしているのか。家族に対してはハグやキスをしているらしい。息子にもするらしいのだが、どうやら大人になるにつれて嫌がられるらしい。って、うらやましいを通り越して、そんな生活送れたら天国だわな。広末さんにハグとかキスされたら、って想像するだけで、もう頭がおかしくなってしまいそう。息子うらやましすぎるぞ。1日でもいいから代わってほしい。おそらくキスなんかされたら、嬉しすぎて夢のようでありすぎて、心臓が止まったり、脳の血管が激しい興奮のあまり破れて脳出血して即死するんじゃないか。あるいは気を失って倒れるとか、もう普通の状態ではいられませんよ。
 それだけ大好きなヒロスエさまであったものの、番組を見ていったらある言葉にわたしはつまずいた。それは街中に出歩く時に変装をするかしないか、っていうことに話題が移った時に彼女が言った「人気ないから」という言葉だ。わたし、人気ないから。その言葉に広末さぁ~ん、っていう好き好きムードは急に興ざめしてきて、何だか自分がやるせない気持ちになってきてしまった。
「人気ないから」って何?って思ってしまったんだ。もちろん、広末さんだって人の子、ただの人間であるからぽろりと失言することだってあるし、常に完璧で模範的な言動ができるわけではない。けれど、わたしはこの言葉が看過できなかった。その一言に彼女の本音というか、つまるところというか、あぁやっぱりわたしたちとは住む世界が違うんだなっていうことをわたしは感じさせられた。
 っていうか、広末さんが人気ないんだったらわたしや一般大衆、それに広末さんみたいになりたいと彼女の後に続こうとしている人や、売れないタレントはどうしたらいいのか。多分、というかおそらく広末さんのこの言葉の定義での人気があるとかないとかいうのは、おそらく自分が10代にブレイクした時くらいの人気があることを指しているのではないかと思う。だから、それと比べたら今は人気がない。そういう風に彼女の言葉を解釈するとすんなりと一本線が通る。たしかにブレイク当時の社会現象とまでなった絶頂期に比べたら、今はかすんでいてしょぼいくらいなのかもしれない。でもね、広末さん。今もあなたをデビュー当時から変わらず応援している熱烈なファンの方が少なからずいるのですよ。結婚しても、子供を持っても、それでもついてきてくれているファンの方がいるのですよ。それも1人や2人じゃない。広末涼子に人生を捧げているくらいのファンはたしかに日本に1000人いるかどうかかもしれないけれど、もっと広く彼女のことが好きで素朴に応援しているって人はたくさん、何万人といると思うんだ。
 もしかしたらだけど、彼女にとってファンの人たちっていうのは数字みたいなものになってしまっているんじゃないかなってわたしは危惧しているんだ。ファンが何万人。自分のことを応援をしてくれている人がこれだけ。でも、その一人ひとりにはみんなそれぞれ顔と名前と個性とその人が背負ってきた歴史を持っている。そんなかけがえのない一人ひとりが、何というか人気を得るための道具に成り下がってしまっていて、さらにはお金を得るための手段になってしまっていて、その一人ひとりに対する想像力が欠如してしまっているようにわたしには思えるんだ。人気ないとかあるとか、それは売れているとか売れていないっていう意味なんだろうけれど、そういう言葉は本当にファンの人たちへのリスペクトというか敬意があったら出てこない言葉じゃないかって思う。
 でも、そういう偉そうなことを言いながらそのわたしだって同じようなものだったりするから広末さんのことを一方的に悪くは言えない。自分のブログのアクセス数が今日は多いとか、少ないとか。つまり、人気があるとかないとか言ってしまっているからだ。本当は一人ひとりかけがえのない唯一無二の存在である人が、人たちがわたしのブログを自分の時間を削って、つまり自分の人生の時間を削ってまでして読んでくれているのに、その読んでくれている人数が少ないとか多いとかいろいろ言ってしまっている。
 もしも最近よく使われるようになったオンライン会議の画面のように、わたしのブログを読んでくれている人の姿が画面上にすべて表示されたとしたら、あぁ、画面の向こうには生身のリアルな人間がたしかにいて、そしてわたしのブログの文章を読んでくれているんだぁという感慨を持つことができると思う。でも、そうしたことが実際なされなくても、わたしのブログのアクセスログに表示されるアクセス数の数字たちはわたしの想像力を刺激してくれる。
 想像する。今日のアクセス数は15だった。それは15人のそれぞれ個性豊かな人たちがスマホなりパソコンなりで画面を通してわたしの文章を読んでくれたってことなんだ。たった15じゃない。何だこれだけ、ではない。たとえ今日、わたしのブログを1人しか訪れてくれなくても、1人のユニークな生身の人間が読んでくれたのだ。それってとてもすごいことだと思う。
 誰かがわたしのブログの文章を読んでくれる。すると、わたしの文章に書かれている内容だったり、感情だったり、考えが読んでくれた人にどの程度かは分からないけれど影響を与える。それがいい影響であることを願いたいけれど、確実に読む前と読んだ後ではその人は別の人に変わっている。変化するんだ。
「星さんの文章を読んだら少し気持ちが楽になりました」
「星さんの文章を読んだら気持ちが少し前向きになりました」
「ほっとしました」
「これでいいんだって安心しました」
 なーんてことを言ってくれる人はまだいないけれど、わたしのブログの読者第一号のわたしの母は「大地の文章には元気をもらっているよ」って言ってくれているし、精神保健福祉士のWさんは「大地さんの文章を読むとポカポカしますし、そうだなって思うところが多いです」ってポジティブな感想を寄せてくれているんだ。だから、本当に少なく見積もっても(第三者の人が誰もわたしの文章から元気や活力をもらってないとしても)2人の人をわたしの文章で幸せにできているということになる。これだけでもすごいことだと思う。誰かにポジティブな影響を与えて、その人の幸福にわずかながらも寄与できている。それってすごいこと。本当にすごいこと。規模がどうこうとか、そういうことではなくてただただ尊くすごいこと。
 だから、広末さんにはもっと一人ひとりを大切にしてほしい。ファンの人やファンまではいかなくても広末さんのことに好感を持っていたり、いいなって思っているすべての人に対して。
 人気。これは曲者だと思う。これにつまずくと、人気が一人ひとりかけがえのない人々の集まりだということが見えなくなってくる。そして、単なる群衆や集団にしか見えなくなってしまう。でも、違うんだ。群衆も集団も世間も社会も、みんな一人ひとり異なる個性豊かな人たちの集まりなんだ。そのことを肝に銘じて忘れないようにする時、謙虚でいられると思うし、謙遜を保ったままでいられるんじゃないかな。
 人気があるとかないとか、そういう風に言うのではなくて、わたしにはわたしを応援してくれている人たちがいる。わたしがすることを楽しみに待っていてくれている人たちがいる。わたしを好きでいてくれている人たちがいる。尊い。尊い。何て尊いんだろう。その尊さに打たれる気持ちを純粋にどんなに俗に言う人気者になれたとしても保つことができたらどんなにいいことか。
 でも、わたしも、わたしも人気者になりた~い。って今までのいい話全部ぶち壊しでしょ。やれやれ。最後の最後にそれはないだろ(苦笑)。

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