わたしの信仰の形

キリスト教エッセイヨガ
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 この前の日曜日も教会へ行ってきた。クリスチャンになって4年目になろうかというところだけれど、わたしの中に確実に変化が起こってきている。礼拝の説教を聞いていたものの、どこか物足りない。説教の内容が悪いとか下手だとか、そういうことではなくて、おそらくわたしが変わってきたのだろう。わたしは変わってきた。たしか5月頃からヨガを始めるようになり、それからほぼ毎日のように欠かすことなくヨガマットの上でヨガのポーズを取り続けてきた。正直に言うと、マンネリ化してきたようなキリスト教と違って、新しい取り組みであるヨガなどの思想やインド哲学はわたしにとってとても新鮮だった。そんなわけで最近はキリスト教の本はほとんど読まず、ヨガとかインド哲学とかの本ばかり読んでいる。
 神様はこの今のわたしのことをどう思われているのだろうか。異教に迷い始めている羊として悲しまれているのだろうか。それとも「いいじゃないの。どんどん道を求めていきなさいよ」とばかりに祝福してくださっているのだろうか。それは正直なところ分からない。悲しまれているかもしれないし、反対に喜ばれているかもしれないし、中立的なまなざしで見守られているだけなのかもしれない。それは神様に聞いておくれ、ってな話である。わたしは神ではないのだから、正直なところは分からない。でも、ヨガをやるようになって肉体的にも精神的にも鍛えられてたくましくなってきたと自分でも思う。体がほどよく筋肉質になってきて、しなやかな感じになってきたし、心だって波風立つことは立つけれど、それでも絶不調に陥ることがほとんどなくなってきた(それは最近のわたしがあの毎度恒例の「ぐだぐだ不調日記」を書いていないことからも明らかだろう)。嫌なことがあっても、持ち直すまでの時間が早くなってきた。もちろん人間なのだから、波風が立つのは当たり前だ。機械とかロボットじゃないんだから。その心の波風をどのように処理したらいいのか、という指針をわたしはヨガをやる人の必読書の『ヨーガスートラ』から教えてもらっている。クリスチャンだから異教的なものは一切タブーだなどと言っていたら、わたしの読書などは禁書だらけみたいなものだろう。それはともかくとして、この『ヨーガスートラ』がわたしに与えたインパクトというか衝撃はとても大きい。目からウロコが落ちまくりと言ってもいいような、そんな読書体験をしている。
 『ヨーガスートラ』、今半分くらいまで読んで折り返し地点かな、というところなんだけれど、ここまでの内容を一言で無理矢理要約するなら、自分の肉体、心、考えと本当の自分を混同することが悩みや苦しみの原因だということ。本当の自分というのがわたしは分かりそうで分からなくてとてももどかしいのだけれど、こんな風にたとえてあった。それは本当の自分とは空(そら)なのだと。そして肉体や心や生じてくる考えはそこに現れる雲やお日様の光や雨などのお天気なのだ、と。空はまったく動かないし、どんなものからも影響を受けない。雨が降ろうと風が吹こうと暑くなろうと寒くなろうと、そういったことに影響されない。お空はお空で、ただ天気をお空に映し出している。ただそれだけのこと、それだけのこと。お空は不変で不滅だ。それが自分自身なのだとこの本の解説にはあった。
 この考えを知って、何だかすごく心が楽になった。怒りや悲しみなどが台風のようにやってきたとしても、それは流れていくお天気でしかないのだ。わたしは、本当のわたしである自分自身はいつも変わらずにいる。何者(ならびに何物)に影響されることもなく、ただただそのお天気を映し出している。他のたとえとしては占いなんかに使う水晶みたいなものだとも本の中ではたとえていたけれど、それが本当の自分であり、自分の本質なのだとヨーガスートラは言う。だから、その現象(この言葉も何かわたしにはしっくり来る)はわたしではないのだから、それに振り回されてその流れていくものを自分だと思ってしまうのは誤りらしいのだ。
 とここまでヨガの思想的な内容に少しふれてきた。わたしの課題。それはこのインド的な思想とキリスト教をどう調和させるのか、ということだ。なかなかこれが難しそうだけれど、人任せながらも先人にこれをやってのけた人がいるので、その人の書いた本を読むなりして、知恵を拝借したいなとわたしは思っているところだ。そもそも、純粋なキリスト教なんて存在しないと思う。十人十色とはうまく言い得たもので、十人いればみんなそれぞれ違うのだから、同じものに触れても取り入れ方や解釈の仕方はまちまちだし、まぁ、キリスト教の大枠から外れていなければいいんじゃないの、っていう話だと思うのだ。それに、もしも万が一、わたしのキリスト教理解や信仰が大枠から外れてしまったとしても、それはキリスト教の正統派から見た時に異端なだけで、だからと言ってそれを何が何でも信じてはならない、ということはない。自分や誰かを傷つけたり、人に迷惑をかけたりしなければ、わたしが何をどのように信じようとそれはわたしの自由だからだ。
 わたしはヨガや瞑想をしながら、なおかつキリスト教信仰を持ち続ける方向でいけたらというのが希望だ。仮にそれが邪道であり、異端的なものだと誰かが言おうとも、ヨガはわたしを心身共に元気にたくましくしてくれたし、瞑想から何度持ち直す力を与えてもらったか分からない。でも、そういったものすらも神様の大きな大きなみ手の中にある。それがわたしの拙いながらも正直な考えなのだ。偉大な先人たちがキリスト教にアリストテレスやプラトンなどを取り入れたように、わたしもインド的なものを調和させたい。そして、そういった動きは少数派ながらもあることにはあるらしい。だったら、わたしはその道を模索する。模索して自分の信仰の形に出会えたら嬉しい。まぁ、すべては神様が用意してくださる。すべての物事は起こるべくして起こっているというインド的な考え方もあるように、すべては神様が与えてくださるのだ。だから、大丈夫だと大船に乗ったつもりでいる。
 これからが楽しみ。ま、なるようになるさ。

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