猫じゃらし

キリスト教エッセイ
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もう何ヶ月も前のことになる。近所の家が取り壊されて、さら地になったのだ。その家に住まれていた老夫婦は、一人が亡くなり、そしてもう一人は何も言わずにどこかへ行ってしまった。おそらく介護施設かどこかへ入所されたのだろう。住む人のいなくなった家はそうして取り壊されたのだった。
何もないまっさらな土地。あるのは土と小さな無数の砂利だけ。が、いつの頃からだろうか。草が生えてきたらしい。「らしい」と書くのはわたしがそのことにてんで関心がなくて、いつもの風景の中に溶け込んでしまっていたからだ。だから、草が生えているといったことすら眼中になくて、何もそのさら地から感動を覚えることもなく、ただただわたしはそこを通り過ぎていたのだ。
で、昨日。草が生えていたことは意識の中に入ってきていなかったものの、さら地になっていたことは分かっていたという無頓着なわたしに一人のおばあさんが鮮やかな感動を与えてくれた。
それは朝の7時頃だったかと思う。だいたいその頃に朝の散歩をしているわたしはその草が生えているさら地の手前10メートルほどを歩いていた。すると、そのさら地の向かいに住んでいるおばあさんが何やら手に草を持っている。おばあさんはわたしを発見するやいなや、何か無性に話したそうにわたしとアイコンタクトを取ってくる。何か話したいのかなと思ったわたしはおばあさんに「おはようございます」と挨拶をした。
するとおばあさんは話したいことがあったようで、泉から水がわき出すようにこんこんと話し出すではないか。この猫じゃらし(草の名前)はお花と一緒に活けるとものすごく味が出るとか、自分はお花の先生の免状を持っているとか。とは言えども話をした時間自体は彼女もわたしを気遣ってくれたからだろう。決して長い時間ではなかった。5、6分かそこらの立ち話。けれど、この時わたしは何か香り高い文化にふれたような気がしたのだ。わたしが一瞥すらしなかったさら地に生えている猫じゃらしの草が彼女の手の中ではとても美しく優雅に見えた。ふとわたしはさら地を見渡して、大量の猫じゃらしの草がそこに生えていることに初めて気が付いたのだった。誰も、ほとんど多くの人々が通過してスルーしていくだけだった猫じゃらしにこのおばあさんだけは視線を注いでいた。このことがとても文化的で風流で味わいがあるように思えてならなかったわたしなのである。高価な宝石などに美しさを見出すのではなく、いわば蔑まれて誰からも見向きされない雑草に価値を見出す。おばあさんの心が本当に香り高いなぁとわたしは思うのだ。そして、豊かな感性をいまだに持ち続けておられるのだなぁとも思うのだ。
猫じゃらしの草なんて、ただの雑草で目障りなだけ。抜くのが面倒だから生えてこないでほしい。そう思う人もいることだろう。しかし、猫じゃらしも適材適所というか、ベストな場所に用いられれば、それはそれは味わい深くて優雅でさえあるのだ。この猫じゃらしにわたしは自分自身を重ね合わせてみたりする。わたしはこの猫じゃらしの草ではないだろうか。ダイヤモンドやサファイアやルビーなどのリッチな輝きはないかもしれない。けれど、花を活ける時に猫じゃらしにしかできない務めが宝石にはできないように、わたしだって適所に置かれて適切に用いられれば、光り輝くのではないだろうか。わたしは猫じゃらしのように雑草として抜かれて炉に放り投げ込まれるような存在でしかないかもしれない。しかし、猫じゃらしは猫じゃらしとして精一杯それまで生き生きと青々と地に根を張りながら生きているのだ。
それに猫じゃらしの草が宝石にはなれないように、宝石だって猫じゃらしにはなれない。別のものなんだ。あいだみつをの詩にトマトがメロンになろうとすることを戒めるものがあるけれど、それと同じことだな。トマトはトマトなんだ。どんなに頑張ってもメロンにはなれない。が、同時にメロンはメロンで、どんなに頑張ってもトマトにはなれない。
おばあさんの手の中の猫じゃらしは今頃、お花と一緒に活けられていて、それはそれはいい味を出していることだろう。それも控え目に脇役に徹しながら。名脇役の猫じゃらしである。わたしもいつか広い世界で活躍したい。自分が中心になって活躍しているのだろうか。でも、脇役にも味があって、俳優にしても名脇役あってこその主役なのだ。だから、まぁ自分がメインになるにしろ、サブになるにしろ、自分なりのいい味が出せたらいいなって思う。
脇役にも主役にもなれなかったとしても、大衆として平凡に生きるという道ももちろんある。でも、考えてみれば平凡な日々の一見退屈にも思える毎日であっても、そこに生きるあなたは、わたしは、主役であり主人公なんだよな。小さな小さな花かもしれないけれど、それはそれで可憐に美しく咲いている。その花がいくらの値段で売れたとかそんなことどうだっていいじゃないか。値段がつかなくても、いわゆる生産性が低かったり、なかったりしてもその花はその花なりに美しく咲いている。それだけでいいような。そんな風に思う。猫じゃらしだって、ひどく言おうと思えば一円にもならないただの雑草だ。けれど、あのおばあさんはその草に尊い価値を見出した。価値って何だろうって思う。お金になるものだけが価値があって、ならないものは価値がないのかな。そんなことないよ。お金にならなくても価値がある。少なくとも万物は神様がお造りになられたものなんだ。だから、みんな神様の大切な作品で価値があるんだ。
さら地の猫じゃらしは今も青々としげっている。ほとんど誰かから注目されることもなく。

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