三流エッセイストの星さん

キリスト教エッセイ
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「はぁ~」とため息が出てしまう。今日、何気なく読んだマルティン・ルターの本に、ルターが修道院時代に聖書の詩篇を一日に50編読んでいたという話があって、すぐ影響される星は「それなら詩篇読んでみようか」と思ったのだ。そこまではいい。問題はそこからだ。詩篇を読んでいたら自分の文筆活動が実につまらないものに思えてきたのだ。はっきり言って、わたしが書いているものって低級なおしゃべりに過ぎないでしょ。うーん、詩篇と比べること自体無謀だという気もしないことはないけれど、それにしても自分が今までネットで発表してきた作品がひどいものに思えてきてしまったのだ。もちろん、すべてが無駄なおしゃべりというわけではなくて、中身が詰まったものもある。ズバリと真理を射抜いているものもあったようにも思うのだ。しかし、聖書の詩篇と比べると、星の文筆くだらないなぁって思わされてしまう。まさに打ちのめされたような、そんな感じなのだ。
 すごいものにふれると圧倒される。ゴゴゴゴゴ~、って地響きがするようなそんな荘厳ささえも聖書の詩篇からは感じられるのだ。
 別に聖書の詩篇と自分の文章を比較して落ち込む必要はないのかもしれない。日本の一流の作家たちだって詩篇とは全然勝負にならないんだから、これって当たり前のことだよね。分かってはいる。分かってはいるのだ。しかし、聖書の詩篇がすごすぎて、格が違いすぎて、自分の文章がまるで塵とか埃(ほこり)のように思えてきてしまうのだ。
 でも、わたしの文筆にはまたそれとして価値はあるんじゃないか、と自分自身を慰めたくもなってくる。なぜなら、いつも真剣勝負では人間もたないからだ。詩篇ってほとんど全部真剣勝負だと思う。神様と真正面から向き合って、助けてくださいとか、力づけてくださいとか、敵を滅ぼしてくださいとか対話をしているんだ。祈りの書とも呼ばれるだけあって、まさに神様とサシで話をしているみたいな。全編そんな調子で進んでいくんだ。だから、読んでいて、すごくこちら側のエネルギーが吸い取られていくのを感じる。少なくとも気分転換とか暇つぶしに読むものではない。暇つぶしに詩篇を読んだ、とか言う人って今まで聞いたことないよ。だから、詩篇を読むと疲れるんだ。
 一方、星の文章はくだけていて読みやすいと思う。読者のエネルギーを奪うどころか、逆に元気を与えているんじゃないかって思うんだ(って誰も言ってくれないから自分で言っちゃうけど)。詩篇と比べたら全然、信仰的な深みとか敬虔さとかはないけれど、それでもわたしの文章にはまたそれとは趣きが異なる味がない? というか、わたしの文章はいわばスナック菓子みたいなもので、詩篇のような高級フレンチにはかなわない。けれど、人は高級フレンチよりも庶民的なスナック菓子の方が食べたい時もあるんだ。だから、星の文筆が必ずしも意義がないかって言えばそんなことはないと思うんだ。っていうか、そう思わなければやっていられないよ。それに一流のものしか存在することが許されないとしたら、アマチュア芸術なんて意味がないことになる。でもね、三流には三流の意義があるんだよ。というか、どんなに周りから下手くそだと言われても、けなされてもその人がそれをやっていることに意味があるんだよ。まぁ、ドラえもんのしずかちゃんのヴァイオリンとかジャイアンの歌なんかのように明らかに騒音レベルの迷惑なものもあるけれど、人に迷惑がかからないならどんな活動したっていいはずだ。
 だから、自他共に認める三流アマチュアエッセイストの星の文章にも下手くそなりにも、まぁ、意味があるんじゃないかって思うんだ。聖書の詩篇と比べたらわたしの文章はクズみたいなものだろう。でも、クズにだって誰か意味を見出してくれる心の広い人はいるはずなんだ。星の文章を「荒削りだけど、まぁいいんじゃないの」と言ってくれる人も少数ながらいるとは思うんだ。価値っていうのは、誰かによって付けられるものでしょ? どんなに多くの人が「これはクズだね。何の価値もないよ」と酷評したとしても、誰か一人でも「何て素晴らしいんだ」と感動したらその心動かされた人にとっては、少なくともその人にとっては価値があるんだ。反対にどれだけ多くの人たちが賞賛したとしても、ある人から見たら全く価値を感じられない、ということも十分ありうる。
 じゃあ、多くの人から価値があるとみなされてきたり、今も支持を得ているものに普遍的な価値があるかどうかと言えば、それはちょっと怪しいと思うな。ま、世間一般から言うところの価値あるものっていうのは、そういうものなんだろうけど必ずしもそればっかりじゃないよね。物事に絶対的な価値をつけられるのは神様だけなんじゃないかなとわたしは思うから、人間がつけた価値というのはどうしても相対的にならざるを得なくなるんじゃないかと思うんだ。
 とここまでまたしても三流の価値論を展開してきた三流の星だけれど、三流には三流の意義がある。アマチュアにはアマチュアとしての意義がある。そのことにこの文章を書きながら気付くことができた。一流でなければ存在意義がないなんていう考え方はやっぱりどこか寂しい。しずかちゃんのヴァイオリンは公害と化しているから難しいところだけれど、彼女の下手くそなヴァイオリンにだって存在意義はあるのだ。だから、星のうまいとは言えない文章にもきっと意義があるし、価値もある。
 そういうわけで、これからも三流エッセイスト星の文筆活動からは目が離せない? 三流の文章をこれからも続々と書いていきますよ。

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