「カメレオンの星」って呼んでくれ

いろいろエッセイ
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 わたしは自分のことをカメレオンだと思う。何もわたしが爬虫類だというわけではない。だから、カメレオンだ、というのは言い過ぎだった。カメレオンみたいだ、というのがもっとも正確な表現である。
 カメレオンみたい。まだしっくり来ないことだろう。カエルみたいだ。もうお分かりだろうか。分かりそうで分からせようとしない意地悪な星である。
 実はわたしは自分がカメレオンみたいだということに悩むまでは行かないけれども、思うところがある。
 わたしがカメレオンみたいだというのは、わたしという人間がまるでカメレオンのように変化してしまうということなのだ。外敵から身を守るためにはその方がいいだろう、とは思う。けれど、そういうことではなく、思想においてカメレオンのようなのだ。わたしという人間の思考がその時その時で、コロコロ、コロコロ変わってしまうのである。
 一言で言えばブレブレな星さんなのである。ブレまくっているのだ。
 たしかに昨日まではキリスト教徒だったのが、ニーチェとかサルトル読んで今日は無神論者になっている、というほどまで極端ではない。わたしは、そこまでカメレオンなわけではない。でも、少々カメレオンなのは、同じキリスト教という枠内にはいたとしても、カトリックの方に傾いたり、正教会の方に傾いたり、はたまたプロテスタントの改革派に傾いたりとブレブレなのである。
 これではいかん。これではいかん、と思いながらもビギナーの星は、ビギナーなだけではなく心がきっと良く言えば素直で純粋でピュアなのだろう。(自分で言っちゃったよ。)読む本、読む本によってあっちへフラフラ、こっちへフラフラといった具合なのである。頼りない星である。お前にブレない芯はないんかい、と自分で自分にツッコミを入れたくなってくる。でも、ブレてしまう。どうしてもブレてしまう。
 だから、わたしが危ない本を読んだら、危ない方向へとまっしぐらである。猫まっしぐらならぬ、星まっしぐら。(笑、な状況ではない。)白紙ではないものの、白紙なような素直でピュアで純粋な星である。危険思想なんかにふれたら、もう即かぶれますよ。
 でも、言い換えるなら勉強というものは、学ぶということは面白いとも言える。自分がいろいろな色にその時その時ふれているものに応じて変化していくから。
 逆に何か本を読んで何も変化がなかったとしたら、その読書は意味があったのだろうか。何も変わらない読書。変化のない読書。まず、そんな読書存在しないだろう。程度の差こそあれ、何かを読めばカメレオンまでいかなくとも変化はするのだ。
 だから、カメレオンみたいだということを必ずしも否定的にとらえる必要はないのではないかと思えてきた。たしかに一番大切な芯のような部分が昨日と今日と明日でまったく違っているというようでは、変化が激しすぎてブレブレすぎて問題だけれど、少し色合いが変わっているというのは別に構わないことだと思うのだ。
 人間は変化していく。昨日のわたしと今日のわたしは若干違うし、同じではない。一時間前のわたしと今のわたしも若干異なる。
 同じ色でいるということ。それは逆に言ってしまえば死んでいるということだ。
 わたしは本を毎日読んでいる。その営みは自分を確実に変化させている。新しい情報を取り込んで自分をアップデートしているのだ。更新して新しくしているのだ。だから、カメレオンみたいに変わってしまうのも仕方がないこと。言うならば、本を読んでて何も変化がなかったらそんな読書、するだけ時間の浪費である。
 変幻自在のカメレオンすぎるのも問題だけれど、色が変わること、変化していくことを恐れないようにしたい。変わっていくことはとても画期的なことであり、面白くワクワクすることだ。
 変わっていく。カメレオンの星さんが明日は何色に化けているか楽しみにしていてほしい。カメレオンなわたしも案外悪くないんじゃない? とこの文章を書きながらまた色が変わった星なのであった。
 生きていれば変わるよ。変わるから生きているんだよ。この当たり前の事実に気付いたわたしはカメレオンの星であることを卑下するのをやめようと思ったのであった。
 チャンチャン。めでたし、めでたし。

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