最近、ネットをやらない生活を始めてもう1ヶ月近くになる。だから、世間からの情報はほとんど入ってこない。そして、ネットをやめる以前から、テレビを見ず、ラジオも聞かずという感じだったから、自宅でまるで鎖国か何かしているような感じになっていた。が、新聞だけは母が読みたいということで朝刊だけはやめずに取っていて、ふと最近読んでいなかった新聞を久しぶりに読んでみた。で、ちょっと思ったことがあるのでその話を書きたい。
わたしが新聞を読んでいて、気が付いた当たり前だけれども、多くの人が気付かずにいるだろうこと。それは物事には前提があるということだ。そんなこと言われなくたって分かってる。たしかにそうだ。すごく当たり前すぎるくらい当たり前だからそう思うのは仕方がない。でも、このことに気付けないまま突き進んでいってしまって、死んでいくというのは寂しすぎるとわたしは思う。
新聞にはこんな記事があった。ある大学生が学生生活をスタートさせて3ヶ月くらいになるのだけれど、友達ができない。授業を聞くのもいつも一人。そういう人が最近多いのだという。だから、そのための対策としてセラピードッグ(犬)を学校にいさせるようにして、それがすごく学生たちの癒しになっていて、効果が出ているといった話。
そうなんだ。大学にワンちゃん連れてきて、それでいい感じなんだ、とだけとらえがちな話だけれど、わたしがひっかかったのは友達ができないこと、さらには授業を一人で受けるのが良くないことで寂しいネガティブなことだという前提を何も疑うことなく新聞が記事として書いてしまっている点だ。わたしは無責任かもしれないけれど、別に友達とかいなくていいんじゃないのって思う。「いいだろ、いなくても」って思う。何か友達がいない人がまるで人生がうまくいっていなくてダメであるかのように言うのやめてほしいとさえ思う。そういう、友達がいない人はかわいそうだよね、という言葉が世間で流通してしまっているからこそ、友達がいない人が肩身が狭い思いをするのだし、それを真に受けて自分は友達を作ることができないダメで劣った人間だと自己肯定感が下がっていってしまう。
わたしは友達を作りたい人は作ればいいと思っている。何も友達を作って、ワイワイ過ごすこと自体を否定しているわけではない。ただ、そうした考えや価値観のようなものをまるで普遍的で絶対的なものであるかのように持ち出すのはやめろと言いたいだけだ。押しつけるなと言いたいだけだ。
そういうことを言うこと自体がイタい人だと世間からみなされることは分かっている。実際、今、わたしには友達はいない。それを世間はおそらくネガティブに評価してジャッジする。でも、わたしには友達を作ってその関係性を持つということが負担でしかなくて、正直、友達と行動を共にしたり、時間を共有してもあまり楽しいとは思えなかった(楽しいような時もあったことはあったけれど、その時間の後には疲れきっているだけの自分がいた)。逆に今、街へ出掛けると多くの人には友達だったり、恋人やパートナーなどがいて、楽しそうに過ごしているように見えるけれど、「何が楽しいの?」とさえ思ってしまう。もちろん、それが何よりも楽しくて幸せならそれでいい。でも、彼らを見ていると時々、一緒にいることに意義を感じることができていないように見える人もちらほらいる。
若いお兄さんたちが5人くらいのグループで街にいたのだけれど、その中に明らかにイジられているだけとしか思えない人がいた。イジられることが最高に楽しいのならいいものの、こちらから見ても楽しそうには見えない。「やめろよ」とそのお兄さんは力なくイジられるたびにひたすら言っていて、見ていて気の毒だった。全然楽しそうではないし、ただグループの他の4人がそのお兄さんをおもちゃのようにしてちょっかいを出して遊んでいるだけだった。
また、せっかくのお買い物だというのに、いつものことのように(日常的な感じがした)ケンカして口論し始めるカップルもいた。そんなに合わないのなら別れればいいのにとわたしには思えてならなかった。
わたしには友達がいない。恋人もいないし、いたことさえないからもちろん結婚もしていない。けれども、わたしは案外、今の状況を楽しめていて、それなりに充実感を感じることができている。わたしから見て中身がほとんどなくて、一緒にいても楽しくなくて、話が合わない上に、マウントを取ってきて、こちらを束縛してきて、時間を際限なく奪おうとするような友達はいらない。それだったら一人でいた方がはるかにいいし、その方が楽しいし快適。同じように、話が合わなくて、価値観が違っていて、一緒にいたくない人とは恋人になりたくないし、もちろんそんな人とは結婚したくない。
わたしは言うまでもなく言動が幼稚で子どもっぽいのだと思う。ものすごくワガママだし、好き嫌いもはっきりしているし、世間知らずで他の人に気遣いもできない。だからなのか何なのか、どうも友達ができないらしい。ただ、それが本当に良くないことで悪いことなのかと言えば、それには絶対的な根拠はないのだから、そのことに勝手な価値判断を加えて、「友達がいない人=ダメな人=劣った人」と決めつけてしまうことはできない。別の見方をすれば珍説のように聞こえるかもしれないけれど、「友達がいる人=ダメな人=劣った人」と言うこともできる。それも友達がたくさんいればいるほどダメな人だと言えると思うのだけれど、初耳だろうか。なぜかと言えば、モノにしても人間関係にしても持てば持つほど、それに縛り付けられるからだ。1個のモノを持っている人と100個持っている人。友達が1人の人と100人の人。どちらが身軽で自由かと言えば、少ない人の方だろう。持てば持つほど荷物は増えていく。となれば、そのモノや人間関係を維持して保っていくためには、それなりに手間暇と労力がかかるのだから、何か一つのことを突き詰めていくことはできなくなる。友達がいれば孤独ではなくなる。しかし、その代償として自由が制限されて、自分の時間、お金、労力がもっていかれるというわけだ。
こういうことをたぶん、冒頭の記事を書いた人は分かっていないし、気付いてもいない。ただ、友達がいないというのは寂しくて良くないことでネガティブなことだから問題であって、それを解決するためにセラピードッグを導入するようになったのはいいことだよね、くらいの認識でしかないだろう。
その記事で友達ができないことを嘆いている大学生も、この常識的で一般的な価値観を何も疑うことなく内面化して自分のものとしてしまっている。わたしだったらその人に「友達を作りたいならそのためのスキルを学べばできると思うよ。でも、別に友達がいないならいないでいいんじゃないの? 別に友達がいないことはネガティブなことでも何でもないよ。そもそも、友達がいても孤独感で苦しんでいる人はたくさんいるからね。無理して友達をやっていてきつくて仕方がない人だっているくらいだからね。友達がいなくても毎日が充実していて幸せな人はたくさんいるよ」とアドバイスをすると思う。
もしも、友達が100人、いや、もっと多くて1000人にでもなったら自分の時間を持つことは難しくなるはず。100人、1000人とラインでメッセージを交換していたらそれだけでその日は終わってしまうし、そうした日が続いていけば、結果的に、その人の生涯は「友達付き合いに人生を捧げた人でした」で終わる。
また、孤独死だって、人間はどんなに親しい人がいても、多くの人たちに囲まれて惜しまれながら死んでいったとしても、一人で死んでいくものだから、「死」そのものが本質的には孤独死だ。
そういう風にちょっとひねくれた感じで、物事の前提を疑っていくと、学校のテストでいい点数を取ること、計算が早い方がいいとされていること、頭がいいこと、お金はたくさん持っていた方がいいということ、などについても切り込んでいくことは十分できる。
学校のテストでいい点数を取った方がいいとされているのは、それができると将来的に高学歴となり、いい会社に入ることができたり、ステータスの高い仕事をすることができたりするから。つまり、そうなっていけばたくさんのお金を手に入れて裕福に暮らすことができる。いわば学校のテストの高得点がリッチな人になることへとつながっていくということだ。でも、果たしてそれが本当にいいことで素晴らしいことかどうかと言えば、人生を終える直前まで分からないだろう。自分が死んでいくとなった時に、そのエリートコースをひたすら進んできてここまでやってきたことを猛烈に後悔する可能性もある。こんなにくだらない人生を送るくらいだったら、もっと適当に生きた方が良かったと思うかもしれない。さらにもっと言うなら、テストでいい点数が取れなくて高学歴になれなかったもう一つの別の人生(つまり、もしもの話)と比べることができない以上、本当の意味でそれが良かったのかどうかは分かるはずがないとも言える。
となれば、世間がどう思うか、どう考えているかではなくて、今、この自分がそのことについてどう感じているか、心地良いのか不快なのか、いいと思えているのかどうかなどとある意味、本能的に自分の直感を頼りにしていくしかない。世間や自分のまわりの人たち、それもまったくか、ほとんど自分のことを知らない人たちに限って、ああせよ、こうせよ、と指図してくる(自分のことを本当に分かってくれている人たちはむしろ見守ってくれていることの方が多い。自分と関係ない人ほどこちらに口出ししてくる)。そして、タチが悪いことに「一般常識」とか「普通は」などという言葉を持ち出してきて従えと迫ってくる。
「友達がいない人はかわいそうだ」。そう安直に何も考えずに多くの人は言う。でも、それは本当にそうなのか? 友達がいる方が、それもたくさんいればいるほどそれに縛られてしまうからかわいそうだ、という見方もできるのではないかと思うし、最近のわたしはよくそういうことを街へ行くたびに感じる。前提、つまりは社会常識や一般通念から自由になることは難しいけれども、新聞などのメディアはもっと友達がいなくても幸せにやれている人のことを記事として紹介した方がいいのではないかと思う。
ぼっち? 何をするにも人と一緒でなければならないなんて誰が決めたの? ぼっちだからこそ周りを気にすることなく自分がやりたい好きなことができるよ。
孤独は良くない? 自分と向き合うことができるからいいんじゃないの? 一人でいることは人間に深みを持たせて成長させてくれるよ。
前提を疑うといろいろ見えてくる。その前提、正しいのだろうか? 本当なのだろうか? まずは疑ってみるといいかも。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。