こんにちは。あれからパッタリとブログが更新されなくなって「星は死んだのではないか」と心配してくださった方がおりましたら、実にかたじけない。それなのに報告もせず、申し訳ない限りです。星は今年も(?)死にませんでした。2月の、夢のお告げで死ぬと言われた日に今年も死にませんでした。ということでとりあえず来年の2月のXデーまでは大丈夫。いやはや、安堵してます。が、その日とは関係なくあっけなく死にましたとなったら、まぁその時はお察しください。
さて、今日書きたいのはすごく不思議に思うことがあって、「ほしい」って何なんでしょうねということ。ほしいってすごく不思議ですよね。「ほしい」というのはどういう感情で感覚なのか200文字以内で説明しなさい、みたいな問いがテストで出たらかなり難しいなと思う。
ほしいっていうのはほしいってことだよ。たしかにそうとしか言えないところがある。ほしいってどういう気持ち、感覚って聞かれたらほしいっていう気持ちで、ほしいっていう感覚としか答えられない。
今、わたしは愛用しているポメラのキーを叩いているわけだけれど、もちろん打ちたいから打っているものの、「さぁ、打つぞ~」と一文字、一文字決意しながら打っているわけではない。打ちたい気持ちは多分あるとは思う。ありながらも、何か意識せずに動いている。いや、動かされているような感じが若干する。それは操られているという感覚とはまた違う。でも、何かほしいと思ったり、ほしいと思って何かをやるということはすごく神秘に包まれている領域ではないかと思えて仕方がない。つまり、謎。脳科学がどんなに発達してきたこの現代においても、なぜほしいと思うのかということを完全に解明することは不可能だと思う。
自分がほしいと思っている物があるとして、どうしてこれがほしいのだろうと理由を自分自身に尋ねてみるといろいろ浮かんではくる。「~だから」ほしいんだ。「~だから」自分はこれがほしい。言葉で完全に把握できていて、まるで理性に基づいているかのようにさえ思えてくる。
その理由はたしかにもっともでその通りなのかもしれないけれど、何かそこには無意識や直感が働いていて、わたしを動かしているのではないかというような気がする。「気がする」のはどうしてなのか。またそこにも合理的な理由があるのか?
よく心理学などで意識していることというのは氷山全体の一角でしかないと言う。その意識や無意識という概念自体が単なるフィクションなのかそれともちゃんとした事実なのか、それすらもよく分からない。けれども、たしかなのはその目の前の物や人や行為などをほしい、やりたいなどと今、自分が思っているということで、それだけはたしかだ。
わたしがヨガの道場へ通うようになって、かれこれ1年ちょっと。その成果なのか何なのか、今までよりも感覚が鋭くなったと思う。まだ頭であれこれ考えてああでもない、こうでもないとこねくり回す癖はあるもののん、それよりも今、自分がほしいとかやりたいと思うかどうかということに焦点を合わせられるようになってきた。
これがほしい。あれがほしい。これをやりたい。あれをやりたい。理由を自分の中に探して頭で納得するまでもなく、おそらく本能的にそういったものを求めている自分がいる。たぶん、これでいいのだと思う。
理由としてはもっともでまともなことを言えているのに胸がときめかない物事はあると思う。分かっているのだけれど、身体がついていかないというやつ。これだけしっかりとした理由があるのにどうも気乗りがしないというあの感じ。
自分の直感を信じる。信じてみる。理屈でどうこうではなくて(もちろん理屈も大事だけれど)、自分がこれがほしい、これをやりたいという気持ちを大事にする。それをいろいろ理由をつけてなかったことにしようとしたりして向き合わないで無視し続けると、いつかはその不満のようなものがマグマがたまっていくように少しずつ蓄積していって限界になると爆発してしまう。今まで何事も問題がなかったように見えたのに、急にキレたりして暴れ出す。
ほしいものをすべて手に入れることはもちろんできないけれど、本当にほしいものは手に入れる方向でやっていった方がいいのではないかと思う。
と、何やらまた少しばかり話がそれ始めているようなので、話を元に戻すと、この自分がほしいと思う、求める気持ちはやっぱり不思議で謎に包まれている。科学でどこまでも解明されていっても、どうしてこれはほしいと思うのに(つまり反応するのに)これはそう思わないのかというのは説明できないと思う。科学が登場するはるか昔、太古の時代から人間は生きてきて、子孫を残すことを繰り返してきて今にいるのだから、科学がすべてではあるまい。神経伝達物質のドーパミンやセロトニンなどという知識は人類の長い歴史ではほんの少し前に発見されただけのものでしかない。
となると、このほしいという感覚や気持ちを別に解明しなくてもブラックボックスならブラックボックスのままでもいいのではないか。そういったことに時間を費やそうとするよりも、今ここでその目の前の物事をほしい、やりたいと思っている自分と向き合って現実的に生きていったほうがいいいと思う。
知識というものは使いようだから、このほしいという気持ちを操って誘導しようということを狙う人はもちろんいる。人々にほしいと思わせることができればお金をたくさん儲けることができるからだ。だとしたら、言うまでもなく、わたしを含めた多くの人はその支配下に置かれていて飼い慣らされているのかもしれない。自分で選択しているつもりがさせられているのかもしれない。
最近、電車に乗った時にものすごくきれいな女の人がいて、わたしはその時、「ほしい」と思った。また下世話な話をしているけれど、その時ほしいと思った。なぜだろう? わたしが好きなタイプの女性と合致しているか近かったからなのだろうか? 清潔感があったから? 優しそうだったから? ちょっと今風のテイストが入っていて魅力的だったから? 理由は考えようとすればいくつかは思いつく。でも、ほしいと思う自分がいて恋い焦がれている。それだけでいいような、そんな気がする。
ほしいと思う感情や感覚が完全になくなったら人はどうなるか? いや、もうその人は生きていなくて死んでいると思う。もうすでに故人となっているはず。食欲がなくなり、眠りたいとも思わなくなり、生きたいという気持ちもなくなり、ただただ無私。そうなったとしたら生命活動は続けられないから自然と憔悴していって擦り切れるようにして死んでいく。
つまり、何かをほしいと求めるのは自分自身をより良く生きさせようとしていることであって(自分自身を傷付ける行為であってもより良く生きようとすることを求めている)、もしかしたら大いなる力が自分自身に働いていて、生かそうと守ってくれているのかもしれない。
どうしてこれがほしいのか? どうしてわたしはこれを求めるのだろう? とてもとても不思議なことですよ。
どうして、ほしいの? ほしいと思えるの? 生きたい、それもより良く生きたいっていうことなんだろうなぁ。

80年代前半に静岡で生を受ける。
自称エッセイスト。
吾輩はエッセイストである。収入はまだない。
ほぼ毎日、ヨガの道場へ通ってヨガをやっている真面目そうに見える人。
エロコンテンツがやめられないと未だに悩んでいる人でもある。
この調子だとたぶん今世で悟るのは無理。
また、何気にクリスチャンでもある。
それから時々、どもる。吃音なので。
ブログに閑古鳥が鳴いて久しい。
有名になりたいけれど、なりたくない。
成功したいけれど、成功したくない。
ぶれている。
最近、歳が近い知人に子どもが生まれた。
その人のためではなくて、自分のために積み木をひそかに買った。
まだやっていない。やろうと思っているところ。
積み木遊びを始めようとしているアラフォー男子。
年齢制限が1歳以上なので条件は満たしている。
じきに哺乳びんデビューするかもしれない。
冗談はそれくらいにしておけ。
みんな引くから。
空気を読みましょう。