マルクス『資本論』を読み始めて分かったこと

いろいろエッセイ星の読書日記
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 前々から読みたいとは思っていたものの、どうも読むのが途切れ途切れになり、続かず読めずにいた本。それがマルクス『資本論』だった。でも、何かこの本を読めばわたしが抱えている問題の新たな糸口が見えてくるかもしれないと新たにチャレンジすることにした。
 わたしが抱えている問題。それも長年にわたって漠然としながらもくすぶり続けているのが価値の問題だ。わたしがつまずいて精神的な不調になる時というのが決まってパソコンとポルノを長時間やってしまった時というのはこのブログでも書いてきたと思う。でも、それだけではなくてそういう時にこれまた決まって思ってしまうのが、自分には価値がないんじゃないかということでそのことにいつもいつも最終的に突き当たっていた。
 とは言っても、「価値」とは何かと突っ込まれると価値は価値でしょ、くらいのことしかわたしには言えないし分からない。だから、価値とは何か、何なのかということを知りたい。そう思っての『資本論』なのだ。
 今回、書きたいのはその「価値」とは何なのかということについて関連しながらも、それ以上に、どうしてわたしたち令和の日本、いや日本に限らずこの世界が生きにくい場所になってしまったのかということだ。
 わたしは次の『資本論』の文章を読んだ時に「あぁそうか、そういうことなのか」と目を見開かされる思いがした。

 ある商品の価値の大いさは、もしその生産に必要な労働時間が不変であるならば、不変である。しかしながらこの労働時間は、労働の生産力における一切の変化とともに変化する。(マルクス『資本論(一)』(岩波文庫)p76)

 労働の生産力が大であるほど、一定品目の製造に要する労働時間は小さく、それだけその品目に結晶している労働量は小さく、それだけその価値も小さい。逆に、労働の生産力が小さければ、それだけ一定品目の製造に必要な労働時間は大きく、それだけその価値も大きい。したがって、ある商品の価値の大いさは、その中に実現されている労働の量に正比例し、その生産力に逆比例して変化する。(同上p77)

 この文章は何やら硬くて難しいようだけれど、特に難しいことは言っていない。つまり、商品の物を作る時にかかる時間が長ければその商品の価値は高くなって、逆に短い時間でできてしまえば価値が低くなって下がるということ。
 たとえば、置物を作るとしてそれを作るのに1時間かかるか、それとも4時間かかるか、というようなことで、1時間でできてしまえばそんなに労力がかかっていないから価値は低くなる。けれども、たとえ同じ物であっても作るのに4時間もかかれば作るのが大変だったということでで価値も高くなる。作るのに時間がかかって大変だったらその価値は上がる。それはそうだろう。当たり前のこだ。
 で、どういう時に作るためにかかる時間が短くなったり長くなったりするかと言うと、「労働の生産力」だとマルクスは言うわけだ。つまり、まず、その置物だったら置物を作る人の能力がどの程度かということ。作り慣れていていわば熟練していれば短い時間で作ることができる。反対に、不慣れで初めて作るとか作り始めたばかりの人だったら同じ物を作るにしても時間がかかってしまうだろう。それから、作るための技術、ノウハウとかマニュアル、のようなものがしっかりとあって高いレベルにまでなっていれば効率的に作ることができる。あと、どれくらいの規模で作っているかということも影響してくる。最後には自然も何だかんだで生産力を左右してくる。置物を作るにしても作業場に屋根があるかどうか、風が吹いてくるかどうか、暑かったり寒くなくて快適かどうかといったことも無視できない。
 このマルクスが言っているごくごく当たり前にも思えること。これが現代を生きているわたしたちを生きにくくさせている。
 簡単に言ってしまうと、生産性を上げて労働の生産力を高めたことによって自分たちの首を絞めているということだ。どういうことか。
 生産性を上げて生産力を向上させると同じ物を作るにしても短い時間で作れてしまう。ということはだ。作るのにかかっている時間が短くなっているのだからその作った物の価値は下がる。置物で考えるなら、一つひとつ手作りで心をこめて時間をかけて作るのではなく、ハイスピードでどんどんどんどん手慣れた人たちが場合によっては分業しながら作る。まだそれなら手作業だけれど、これをさらに機械化すれば手作業とは比べ物にならない短い時間であっという間に作れてしまう。5時間作るのにかかっていた置物が1時間で作れるようになればその価値は一気に下がってしまう。
 そうなれば置物1個の値段は手作業で作っていた頃と比べて安くなり、同じだけ利益を出して儲けるためにはたくさん作ってたくさん売らなければならない。もちろん、その機械で同じような置物を作っているのは自分のところだけではないから競争に負けないようにしなければならなくて、自分のところだけ高値で売るわけにはいかない。それどころか競争に勝つためにはより安く、より高品質でなければならない。となれば、その置物を作るためにかかる費用、コストをどこまでも削って下げていかなければならない。その結果、人件費の、会社だったら従業員のお給料も気前良く出すことはできずに低賃金とならざるをえなくなる。それに加えて低賃金だけならまだしも仕事をする人の数自体もコストカットということで少なくせざるをえないから、一人あたりの仕事の量がとにかく多くなってくる。働いている人の数が少ないからしわ寄せとして仕事がきつくなるのだ。となれば、もうどうなるかは分かっている。給料安くて仕事がきついとなる。けれども、だからと言ってその仕事は手を抜いてはならない。なぜなら安くて高品質な物やサービスを提供しなければならないから。安いだけではなくて高い品質でなければならないから手を抜くことは許されない。
 そもそもどうしてこうなってしまったのだろう? わたしが思うには、生産性を上げて労働の生産力を上げる方向でここまでこの世界が進んできてしまったのも、「安くていい物、いいサービス」がほしいと人々が望んでそれを行動として徹底したからではないだろうか。高くて良くない物(粗悪品)は要らないとどこまでも欲望のままに突っ走ってきてしまった。
 安くていい物やサービスをみんなに提供するためには、安くいい物を作り、サービスをしてくれる人が必要。つまり、安いお金をもらい、いい仕事をしてくれる。そんな都合のいい人が必要だということなのだ。そして、物やサービスが数をたくさんこなさないと儲けが出ないから大量に大規模にやっていかなければならない。そうしてやってきた結果、グローバル大企業にまで発展した。
 また、生産力を上げるためには専門的な高度な知識が要求されるようになる。原始時代にはおそらく小学校のたし算や引き算、もう少し欲張ってかけ算、わり算くらいできればよかったのだと思う。でも、現在の日本や世界の先進国などではそれでは話にならなくて通用しない。大学を出ていることがまるで当たり前か何かのようになっていて、さらには高い専門性がなければたくさん収入を得ることは難しい。その結果、みんなが高学歴となり、子ども一人を育て上げるためにもかなりのお金が必要となってしまった。本来、人類の長い歴史においては、子どもというのはお金のあるなしに関わらず、育てて来れたものなのにそれすら贅沢なものとなりつつある。仕事がこれだけきつくてハードワークなのに給料は上がらず、子どもを育てることもままならない。まるで機械のように文句も言わずに、たくさんの仕事をハイペースで少ない人数でこなし、その仕事のクオリティーも落としてはならない。何かどん詰まりなのかもしれない。
 わたしは資本論を読みながらこう思った。人間がハイスペックになり賢くなればなるほど不幸になっていくのではないか、と。もっともっとと欲望は際限なく大きくなっていきとどまることを知らない。欲望をどこまでも膨らませてきた結果が今なのではないか。だから、受験勉強や過労などで精神的な不調になるというのは、わたしたちの中の内なる自然がストップをかけているのだとわたしには思えてならない。生産性をどこまでも上げて、もっともっとと飽くなき利益の追求をし過ぎたわたしたちに対して「それは良くないからダメだよ」と警告しているのだ。そして、精神的不調になれば生産性は、そしてその人が持っている労働の生産力はどん底にまで落ちて下がる。何もできなくなってただ寝ていることしかできなくなる。でも、むしろそれが正解なのではないか。そんな風に思う。その病気になる前のハイな状態をどこまでも続けていったらもっとヤバくてまずいことになっていたはず。自殺したり過労死したりしていたとしてもおかしくないだろう。そう、限界だったのだ。それを自分の中の内なる自然が働きかけて守ってくれた。精神疾患もそう見ると絶対悪なのではなくてちゃんと役に立っている。「この世に無駄な物はない」というのはそういうことなのだろう。
 さて、こんな世の中への処方箋はあるのだろうか。あるとしたら、もっとのんびりしてゆっくりしようよ。あんまりキリキリ、カリカリしないで時にはバカみたいになってさ。こんなことを言うと「はぁ? 何言ってんの? そんなんじゃこの社会を生きていけないよ」と喰うか喰われるかの世界で生きている人は言うことだろう。でも、そもそもこの世界が人間も含めてハイスペックになりすぎていることも要因としてはあるのだから、そのあり方と逆行するのが得策ではないかと思う。みんな賢すぎる。バカになろう。賢くなればなるほど自分たちの首がどんどんしまっていくのだからバカになればいい。そして、毎日、脳天気に楽しくニヤニヤ笑いながら生きていけばいい。世界はわたしたちに機械のようであることを求めてくる。たくさんの仕事を速く正確に休むことなく高いクオリティイーでやることを。でも、それは機械にやらせておけばいい。だって、わたしたちは機械ではなくて人間なのだから。
 と言いつつも、バカになれないんだよなあ。要らないプライドが邪魔をして。資本論を読み始めてバカになった方がいいいと思ったとか訳分からないような気もするけれど、要はそういうことなんじゃないかと。現時点での意外な見立てがどう変わっていくか。資本論の続きが楽しみ、楽しみです。

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