世界中に建てられてるどんな記念碑なんかより、あなたが生きている今日はどんなに意味があるだろう

いろいろエッセイ
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 昨日は母の誕生日だった。68回目の誕生日で70代も目前に迫ってきたわけなんだけれど、そんなわけでわたしは昨日はお祝いをした。
 まず、文明堂のカステラを買ってきた。文明堂のカステラってお高いのよねぇという本音が見え隠れしながらも、それでも最近お腹の調子が良くなってきたものの、ケーキとかチョコレートなんかは食べるのが不安だという母のためにカステラにしたのだ。バースデーケーキならぬ、バースデーカステラ。カステラの上にはろうそくは立てなかった(当たり前か)。でも、わたしにとっては昨日は特別な日で、その象徴がカステラだったのだ(しかも高級なやつ)。
 次に親子丼も作った。って、ヴィーガンじゃなかったの、と疑問を持たれることだろう。わたしはヴィーガンで鶏肉や卵はもちろん動物性の食品をこの1年あまり食べないできた。でも、何だか最近、本格的にヨガを習いだして「それってある意味、固い心の不安とおそれによる自己規制なんじゃないかと思うようになってきていた。だから、別にヴィーガンというあり方にこだわらなくてもいいんじゃないか。もちろん、動物たちの犠牲は犠牲として受け止めながら、しかしちゃんと味わって命をいただくという気持ちで食べる。粗末にするように食べたりはしない。そんな気持ちで動物たちに臨むのであれば、もうそれでいいんじゃないか。甘いのかもしれない。言っていることが思いやりに欠けるのかもしれない。けれど、わたしを含めて万物は川の流れのようなものだから、その時その時で変わっていく。だから、いい。変わっていくその自分自身の変化をも受け入れたいと思った。それがお肉を食べることを再開しようと思った理由なのだ。
 と、説明が長くなったけれど、昨日はバースデーカステラに親子丼とおいしいものを食べてすごく満足のいく日だった(それから前日にいちごがもう傷みそうで半額になっているのがスーパーにあったからそれも買った。さらに、いちごもおいしかった)。カステラもおいしかったけれど、それ以上に和食の本を見て作った親子丼がおいしくて、おいしくて。母に「この親子丼どれくらいおいしい? 100点満点だとしたら何点くらい?」と訊いたら「120点」と答えたくらいだからそれがどれだけうまかったかということが分かるだろう。さらには、「お店を超えている」とも言ってくれた。星シェフの作る料理(ただ本を見ながら作るわけだけど)は格別のお味のようで、何しろ本の先生が一流なので、それ相応のものができるようなのだ。
 そんな感じで昨日のあらましを語ってきたこの記事。で、今朝目が覚めてベッドの中でこんなことを思った。何をやったとしても、何を手に入れたとしても、最後にはそれを良しとできるかどうかなんだろうな、と。
 何もこれはわたしにとっては新しい考えでも何でもなくて、突き詰めていくとそうなるという結論でもある。以前もこのブログに同じようなことを書いたような覚えはあるけれど、それでもわたしは同じ人だからまた同じようなことを思ったようなのだ。
 はい、難関大学に合格しました。はい、その大学を卒業しました。はい、いい会社に入りました。はい、会社でいい役職に就けました。はい、美人できれいな奥さんをもらいました。はい、子どもが生まれました。はい、子どもが大きくなりました。はい、……(続く)、あるいは、はい、10カ国語ができるようになりました。はい、お料理ができるようになりました。そんな調子で「はい、○○しました」「はい、○○になりました」と人生は絶えず動いていく。けれど、最後はそれを良しとできるかどうか。どんなに高い地位を得たり専門的な技能を身に付けたとしても、いつも不満たらたらで「俺はダメだ。まだまだ全然足りない。もっともっとだ。そのためにはあれをやってこれをやらなければならない。あー、やってもやっても終わらない。満たされない。何で不安なのだろう? っていうか俺の人生って一体何なのだろう? 何のためにこんなに毎日あくせくあくせくしているのか自分でも分からない。自分には足りないことばかりで全然なっていない」と思い悩んでいる人よりも「わたしはそんなに頭が良くなくて、いい学校も出ていなければ難しいことは分からない。特に何か秀でているわけでもない。でも、わたしは今の自分のやっていること、自分の暮らしを悪くないと思っている。わたしを人は平凡だとかつまらないとか言うかもしれないけれど、これはこれで味があるんじゃないかな。わたしがいつ死ぬかは分からないけれど、こんな調子でやっていった先に死があるのであれば何も不安はないし、極端な話、近いうちに人生が幕を閉じてもかまわない。きっといい人生だったなって思いながら死んでいけると思う」と思える人の方が幸せではないかと思う。
 かく言うわたしの頭の中って雑草だらけだと思う。これは雑念とか邪念という意味での雑草ではなくて、やることやってきたことがみんな中途半端だという意味だ。いろいろなものに手を出してはどれも中途半端なまま終わって、結局大きな木とはならない。幹があるような立派な木にはならないのだ。でも、それならそれでいいのだとわたしは思っている。一本の大きな木とはなれず、いわば小さな雑草のようにしかなれなかったとしても、あるいは大成して立派な大きな木になれたとしても死ということをもって引き抜かれたり、伐り倒されたりするからだ。もちろん、輪廻や天国や来世などがしっかりあってということなら話は別で人格的なものを持ち越せるわけだけれど、ただ頭脳にしろ肉体にしろ死んでそれで終わりとなるのであれば抜かれたり伐られたりするということになる。まぁ、最後にどうなるかは分からないから、そして自分の力ではどうしようもできないことだから大きな力に委ねましょう、ということなのだけれど、立派な人も、まずます立派な人も、普通の人も、ダメな人もみんな最後には平等に死んでいく。その平等は、その各々の人生に価値の高低とか貴賤とかそんなものはないのかもしれないという気持ちにさえさせる。だから、わたしは思う。最後の最後で笑って死ねるか、ではないかと。最後の最後、命が尽きそうになった時に「あぁ、いろいろあったけれどいい人生だったな。もう思い残すこともないな」と思えるならそれ以上のことはないとわたしは思う。悟りとか解脱はそれさえももう既に超えている状態で、そんな思い煩いはとうの昔に通り過ぎているのだけれど、まずわたしを含めた凡人のわたしたちは人生最後の日に後悔しないことを目指していった方がいいのではないか。そして、最後には大いなる存在にすべてを委ねて安らかに逝けたらもう完璧なのだと思う。
 だから人生で何をなしたとか、何をやったかとかそんなことは些細なことでしかない。どんなに死んだ後に立派な記念碑を建ててもらえたとしても、生きている今、つまりこの瞬間、たった今を愛おしめないようでは空しいだけではないかと思う。「世界中に建てられてるどんな記念碑なんかより、あなたが生きている今日はどんなに意味があるだろう」とブルーハーツも歌っているように、今なんだ。生きているたった今、この瞬間。死んでから銅像を建ててもらっても、それは死んだ後の話でしかなくて、そんなもの空しい! 
 わたしの人生、あなたの人生、悔いがないようやってまいりましょう。って凡庸な結論に落ち着くわけだけど、これっきゃない。その人なりに精一杯生きていければそれで十分。だって精一杯なんだからね。それを人が何と言おうともね。

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