今日、公民館での最後のヨガ教室に行ってきた。最後の、というのは、わたしが週3でアシュタンガヨガの教室に通うことを決めたからだ。そういうわけで、体力的にも精神的にも公民館のヨガ教室にも同時に通うのは無理、と判断したので今日を最後の日にしたのだ。
公民館のヨガ教室というのは、いわば高齢のおばちゃんたちが足繁く通う感じの、リラックスというか体をメンテナンスするようなゆるめのヨガをやる所で、わたしが最近求めてやまない本格的なヨガ教室ではない。公民館のは、ヨガのポーズを取ったり、体を動かすというものではなくて、体を整えるのがメインであり目的。そして、少しでも気持ちよく体をメンテナンスして生活において故障がないようにするためにやる。だから公民館のヨガは本当にゆるくて気分爽快リフレッシュするためのものなので、わたしが最近やると決めたアシュタンガヨガとは目的も求めていくものも違うのだ。
で、今日が最後の日、ということで、いつもわたしの右隣にいるおばちゃんに「今までお世話になりました。お元気で」と別れの挨拶をしたんだ。そのおばちゃんはわたしに「さびしくなるね」と言い、何だかちょっとしんみりした感じになってしまった。わたしももうこの公民館のヨガに通うようになって1年にもなっていて、曲がりなりにもそのおばちゃんにとってわたしの存在というのが、自分の左隣にいつもいるお兄さんになっていたわけだから、今までいた人がいなくなるというのは何か感じるところがあるのだと思う。わたしもそのおばちゃんとこれから会えないと思うと、少しばかり寂しい。もちろん、そのおばちゃんと特に懇意にしていたわけではなくて、いわば普通の感じで接していただけで、大親友とか、そういうわけでもない。でも、寂しい。月日を曲がりなりにも共有してきたのだから、こうした感情が浮かんでくる。
でも、それよりもさらに寂しい気持ちがしたのはその教室のヨガの先生との別れだ。別れ、なんていうのはオーバーかもしれないけれど、わたしはこの教室を卒業して自らの道を進んでいくわけだから、その先生のもとを去っていく。で、先生に、アシュタンガヨガの教室に行ってきたことと、そしてこれからはアシュタンガヨガの方をやりたいから、この公民館の教室へは来られなくなって今日が最後になるかと思う、ということを手短に伝えた。すると、先生はわたしが自分の教室へ来なくなることについては一言もとがめることなく、ただただ「良かったですね。探していたヨガが見つかったんですね」とまるで自分のことのように喜んでくれた。
もしかしたら、いやもしかしなくても、曲がりなりにもヨガの先生にとっては、自分のもとを去ってさらにステップアップしてヨガの道を邁進していきたいという生徒の存在は嬉しかったのだろう。とても嬉しそうだった。そして、「時々、お手紙を書きたいと思うのですがどこへ送ったらいいですか?」とわたしが聞くと、自分のメールアドレスを教えてくれた。「ヨガをやって怪我をしてしまったり、何か困ったことがあったり、相談したいことが出てきたり、メールしたいと思ったらメールをください」とのことでわたしはその言葉が本当に有り難かった。さらにわたしには「楽しんでください」とも言ってくれた。「これから修行だと思っている」といったことを言ったわたしへの先生からのささやかなアドバイスで、きっとストイックになりすぎてガチガチになってしまうわたしの気質みたいなものが分かっていたからこそ言ってくれたのだろう。また、「何か困ったことがあった時にはアシュタンガヨガの先生とか自分が波長が合うと思うような人に相談しながらやっていってください」みたいなことも言ってくれた。わたしはそれに対して「今まで有り難うございました」と感謝の言葉を重ねたのだった。
何か今日は卒業式みたいだった。わたしの事情を知っていて送り出してくれたのは、おばちゃん一人と先生一人の計二名だけだった(ま、人望はないので)けれど、わたしにとってはヨガのひとくくりというか、卒業式だった。
これからわたしはオーバーは承知の上で言うけれど、新しい世界へと飛び込んでいく。新しい環境の中でやっていくのだ。もちろん、新しい環境で、新しい場所で、新しい人たちの中へ入っていくわけだから、うまくいくかどうかは分からない。もしかしたら1ヶ月もしないでアシュタンガヨガの教室を脱落してしまうかもしれない。気が変わったり、うまくいかなかったり、思っていたものと違ったり、やっていけば問題はいくつも出てくることだろう。でも、それは仕方がないこと。人はずっと同じではなくて変わっていく存在だから、もしかしたらやっぱりアシュタンガヨガをやるのをやめた、となるのかもしれない。まぁ、そうなったらそうなったでそれもまたいいのだと思うし、思いたい。まるで行動をプログラムされたロボットみたいに何が何でも最初に決めたことに縛り付けられてがんじがらめにされることもないんだ。やってみて、やっていく中でしか分からないことはもちろんあるのだから、その時はその時で出たとこ勝負でいけばいいじゃな。やめたくなったらやめればいいし、休みたくなったらお休みをすればいい。何も最初から最後まで全速力で計画通りにできなくたっていい。今までの人生において人生予報がことごとく外れたように、今わたしが思い描いている人生のプランだったり何なりの人生予報はきっと思い通りにはいかない。でも、思い通りにいかないからこそ人生は面白いのだと思う。すべてが思い通りになったら何も面白いなんてことはないし、すべて想定内の人生なんて何にも面白くない。想定外が来る。でも、それがあまりにも想定外すぎても人生がハチャメチャになってしまうから何だけれど、計画通りにいかない、思い通りにいかないのは決して悪いことではないし、ごくごく自然なことなんだ。今回のわたしのアシュタンガヨガの件だってまさかこんな風に落ち着くとは数ヶ月前のわたしには予想することさえできなかった。だから、何がどう転がるか、どんな展開になるのか。計画は立てるものの、行き当たりばったりの風任せのようなそんなものだと言って間違いではないと思う。
先生と別れ、そして右隣のおばちゃんとも別れ、わたしは旅立つ。オーバーと言えばオーバーだけれど、今日はわたしにとって公民館のヨガ教室の卒業式。寂しくもあり、少ししんみりともしたそんな卒業式。ヨガでは求めている時に、それも本当に求めている時に先生が現れる、といったことがよく言われるけれど、この公民館のヨガ教室の先生がまた新たな出会いをもたらしてくれたんだなと思う。だって、この先生がわたしに「星さんはDVDのパワーヨガをやっているくらいだから、アシュタンガヨガがいいと思います」ってすすめてくれたんだから。そして、わたしがアシュタンガヨガの教室へ行こうかどうか迷っている時に「ぜひ行ってみてください。新しい世界が広がりますから」と背中を押してくれたのだから、わたしのヨガの道においてこの先生の存在は大きかったのだ。
とここまで書いてきたけれど、星さんのアシュタンガヨガへの挑戦は一ヶ月も経たないうちに終了したのでした、なんていう情けない事態にならないとも限らないので、まぁ、やれるだけやると言うにとどめておこうと思う。何せ、まだアシュタンガヨガの教室へは1回しか行っていなくて、ほぼこれから始めます、という状態なのだ。だから大言壮語する段階ではない。まずは、週3のその教室のクラスを一回、一回そのことだけに集中してやっていくこと。5年やろうとか、10年やらなくてはモノにならない、なんて思わなくていい。ただ、目の前の今、その一回、一回に集中して取り組んでいくだけだ。一歩一歩やっていく。そうしてやっていって結果が出なくても、あるいは出てもそのことにこだわらない。それよりも着実にやっていくことだけを考える。黙々と与えられた課題に取り組んでいく。それでいいのだと思う。結果を出そうとか、結果が出ないと困るとか、レッスン代のもとをしっかり取ろうとか、そんなことも考えないで、ともかく一歩一歩やっていき山を登っていく。山頂まで至らずにわたしの人生は終わってしまうかもしれない。でも、そのゆっくりな歩みながらも登っていたということ自体の、つまり過程にこそ価値を見出してやっていけたらと思っているんだ。
わたしのこれからはどうなっていくのかな? ま、なるようにしかならない。やれるだけ、やれるだけやってそれで良しとする、でいいんじゃないの、としか思い浮かぶ言葉はない。
先生、わたしはアシュタンガヨガの道でやっていきます。でも、寂しくなったらまた戻ってくるかもしれませんので、その時はまたよろしくお願いしますね(って、卒業したんじゃなかったのかよ。退路を断たないところに星の甘さが出てるな)。ま、頑張ります。
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1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。