「足る」と「もっと」との間で感謝を叫ぶ

いろいろエッセイ
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 もう既に幸せ。わたしはもう既に幸せ。必死になってそうではないのに、そう思い込もうとしているわけではなくて、わたしはこう思っている。と言いつつも、もっとほしいような気もする。もっとお金をザックザック手に入れて好きなことがしたい。あれがしたい。これがしたい。お金があったらこんなことできるのに、などと想像したりすることもある。でも、わたしは思う。と言うか思うことにした。無理矢理思わせるとかそういうのとは違うんだけど、それでも思うことにした。わたしはもう既に幸せで、幸せな人間なのだ、と。
 現状に満足する。それは悪いことなのか? 人間というものは現状に満足したらそこで終わってしまう。だからこそ、より高く、それももっと高く、高く高く上を目指していかなければならない。そうすることによって、人間は進歩向上していく。そうしない人間は怠惰でダメな奴だ。そこまで、そこまで面と向かって言う人はいないかもしれない。でも、つまりはそういうことなんでしょう? 今のままでいいって思ったら人間は堕落する。向上しようとしてようやく現状維持程度に抑えることができるんだ。
 上がって、上がって、上がって、上がる。バリバリ稼いでお金をたくさん手に入れる。自分磨きをして資格を次から次へと取る。習い事を並行していくつもやる。休日も休んでいる暇などない。やることはまるでテレビの番組表のように隙間なく埋め尽くされるほどあって、休んでいる場合ではない。これでいい。これでいいんだ。自分は素晴らしい人生を送っているんだ。送れているんだ。そう信じて疑わない。
 でも、ふと思う。どこまで上がったらいいんだ。どこまでやったらいいんだ、と。もちろんこういう感じで際限なく自分を高めていける人はいい。そういう人はその路線でやっていってくれればいい。でも、世の中には上には上がいて、わたしがどんなに自分がイケてるんじゃないかと思ったとしても、さらに上、それもはるか上を行っている人はごまんといるんだ。そして、気落ちする。自分は足りない。全然足りない。だからもっと努力しなければならない。そんな風に思う。こうして明けても暮れても際限なき上昇志向でだんだん疲れてきてしまう。自分は何のためにやっているのだろう。やりたいからやっているのさ。何のために? ってやりたいからだよ。やりたいから? ということはやりたくなくなったらやめるの? そういうことになる。
 年収ウン千万円の人がいる。何ヶ国語も自由自在に操る人がいる。ヨガの達人がいる。資産が飛び抜けている人がいる。そんなすごい人たちのことが自分のところへ伝わってきた時、わたしたちはどう思うか。わたしたちはそういった人たちと比べて平凡な自分が足りないと思う。全然足りないと思う。そして、猛烈な渇きを覚える。
 わたしはこの渇きが必ずしも悪いものであるとは思わない。人を成長させて向上させる原動力となる場合もあるからだ。しかし、わたしなどの場合にはその圧倒的な衝撃に押しつぶされてグシャグシャになってしまう。「ダメだ~。わたしは全然ダメだ。わたしは何にもできていない。よく今までこんなどうしようもないわたしでい続けたことが恥ずかしくなかったな。ダメ、ダメ。わたしは話にもならない。」
 わたしのささやかな平凡な日常は突如としてすごい人に脅かされてかき回される。
 が、ある時わたしは思った。冒頭に戻るのだけれど、自分はもう既に幸せなんじゃないか、と。気休め? 負け犬の遠吠え? 自己正当化? 開き直り? 批判しようとしてくる人はおそらくそんなところをつついてくることだろう。でも、わたしは自分はもう幸せになっているのだと思う。既に幸せで満ち足りているのだ、と思いたい。文句を言おうと思えばいくらでも言うことはできる。でも、文句を言うのではなくて感謝したい。だから、今の貧乏生活から抜けられないんだよ。働けば全部の問題が解決するから働きなよ。訳知り顔でこんなことを忠告してくる人もいる。でも、わたしは思うようにした。自分は今幸せなのだと。それにわたしの生活とか置かれている状況とか、そういったもの一つひとつにていねいに目を注いで見つめ直してみると、あぁ、悪くないなって思えるんだ。ただわたしが自分よりもお金持ちだったり、賢かったり、才能にあふれている人なんかと比べて、する必要もないのに勝手に自分を否定して自滅していただけなんだなって気付いた。何も自分のことを否定する必要なんてない。ましてや、わたしのことを否定してああせよ、こうせよと要らぬお節介をしてくる人に耳を貸す必要なんてない。わたしはわたしでいい。今のままでいいんだ。
 進歩がない人間のように見えるかもしれない。でも、前に進んでいくためには今の自分自身を認めてよしとするところからしか進んでいけないと思うのだ。わたしはわたしでいい。今のままでいい。だからこそ、より良くなっていきたい。そのためには何をやったらいいのだろう?
 今のままでいい、とより良くなりたいは矛盾する考えなのかもしれない。でも、わたしは一見矛盾するこの考えが両立するのだと思う。少し言葉を変えるなら、わたしは幸せなんだ。幸せだと思うんだ。じゃあ、もっと幸せになろう。幸せだけれどより幸せな状態へとなっていこう。これは足りないから何かを求めているんじゃない。満たされているんだけれどもさらに上を目指していきたいということなんだ。上を目指すには満たされていてはいけないと普通思うことだろう。ハングリー精神でもっともっとと求めていくからこそ上を目指すことができる。しかしわたしはそうではなくて、そうは思わなくて、100点満点なんだけれど、それをさらに120点とか150点に高めていこうっていう話なんだ。50点とか60点だから100点から見て足りない点数を補うんじゃなくて、もう満点なんだけれどさらに質を高めていくみたいな。そう、これはオプションなんだ。付け足していくもの。より良くしていくためのものなんだ。それも理由が足りないからじゃなくてね。コップに水が満杯に入っている。でも、さらにコップを大きくしていって、そこへまた水をさらに加えるみたいな、そんな感じ。十分な水はあるんだけれど、さらに求めていく。どんだけ貪欲なんだ、って思うかもしれないけれど、こういうことなんだ。
 今の現状が話にならなくて足りない。だからもっと向上していこうと思うのと、今は今で満ち足りているのだけれどさらに向上していきたいというのは、同じ向上であっても違うと思うのだ。まぁ、後のほうが余裕があって切迫感がない感じにはなる。でも、気持ちの面では大きく違うんじゃないかなと思うし、同じ状態であるなら自分は満たされていると感謝できる方がいい。
 平凡な暮らし。普通の暮らしを送れるということ。世界で飢えていて今日のパンがないと困っている人から見れば、わたしの暮らしなどはまさに天上の生活だろう。下と比べてどうこうというのではなくて、わたしはただ自分の置かれている状況に感謝したいと思うのだ。当たり前のことを当たり前とは思わず「足りない、足りない」と思うのではなくて、こんなに自分には豊かなものが与えられていると思いたいのだ。たしかにより多くをあらゆる面で持っている人から見たらわたしの生活など色褪せてしまうし、価値を見出すことが難しくなる。でも、今与えられているもので満足して足るを知る時、そこには深い安らぎと満足が訪れる。反対にどんなに豊かなものを持っていたとしても足るを知らなければ飽くなき貪欲さに追い立てられてどこまで行っても満足できないし、幸せを感じることはできない。だから、わたしは満足することにした。満足して今持っているものを味わうことにした。
 とここまで書いてきてやっぱり矛盾しているのかな、とも思う。論理的には矛盾している、満足することと求めることは。満足している人が求めるのか? 満足していないから求めるのではないか。そういう意味では足ることの意義を言いながら、より求めることをしていきたいと言うのは明らかに矛盾している。やっぱり、矛盾ですかね? してますかね? 満点なんだけど、もうすでに満点なんだけれど、さらに上を目指すのってやっぱり満点だってことに満足してないんですかね?
 ぎゃふん。でも、わたしの言いたいことがどういう感じかっていうのは分かってもらえたんじゃないかと思う。要するに今を良しとした上で、今を認めた上でさらに求めていくってことなんです。って説明になってる? 説得力ナッシング? いやいや、矛盾しているくらいが人間おもしろいから。
 結局、わたしは現状に満足していなくて、足るを知らない、らしい。いやはや、とんだ醜態をお見せいたしました。
 現状に満足していないのかもしれない。でも、現状に感謝したい。そんなところでどうでしょう?(笑) ってお前が言い出したことだろー!! 痛っ。

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