もう20年ほど前のことになる。わたしが20歳くらいのころの話。
わたしは大学生で親元を離れて下宿生活をしていた。あれは統計学の授業だったと思う。その時に、その先生がわたしたちに語ったことがとても衝撃的で記憶に鮮明に残っている。たしかこんなことを言った。
「ぼくらは金持ちがはした金として使うお金を手に入れるために死に物狂いで働いているんです。それを思うとき、やりきれない気持ちになります。」
この言葉は20歳そこそこだったわたしの心に不思議な余韻を残した。普通、大学の教師だったらこれからを生きていこうという若者にこんな言葉を語りかけたりはしないだろう。もっと希望にあふれる前向きな言葉をかけるのが普通だ。しかし、その教師は真実をズバリと射抜く。透徹な眼差しで真理を語った。今ではわたしはそんな風に思っている。その先生はアメリカ留学もしている。おそらくそこで貧富の差も目の当たりにしたことだろう。そうした体験からそんな一言がこぼれたに違いない。
この一言は本当に深いところをえぐっている。わたしはぼちぼち貧困と飢餓の問題についても学んでいるんだけれど、つまりはそういうことなんじゃないかって気がする。
この先生の箴言をさらに広げていくとこうも言える。
「金持ちがはした金として使うだけのお金が貧しい人に回されれば、多くの人たちが死ななくて済むのにそれがなされていないのです。それを思うとやりきれない気持ちになります。」
つまり、この世界はどこかおかしいのである。自分のお金をどこまでも膨らませていく人がいるかと思えば、一方ではお金がなさすぎて死んでいく人がいる。わたしは単純なのかもしれないが、たくさん持っていて有り余っている人が持っていなくて困っている人に分けてあげればいいのに、って思ってしまう。たくさん持っている人は持っている分を元手にしてそれを増やせる。けれど、持っていない人には何もない。
こんなことを考えていると、働く気持ちがなくなってくる。わたしがどんなに頑張って働いても、金持ちが資産をもとに増やしていく分からみたらまさにはした金だ。そのわずかなお金を得るために死に物狂いで働く。働かなければならない。
わたしにとって受け入れがたいのは、金持ちが捨て銭のようにホイサホイサ使うお金を得るために自分の命を削らなければならないことだ。まったくもってして、それがわたしには不条理に思える。わたしの命の価値はその捨て銭程度の価値しかないの、と思えてきてしまって悲しくなってくるのだ。
ましてや、その金持ちの捨て銭があれば助かる命がいくらだってあるんだ。何万、何百万の人々が救われて命が助かるんだ。ということは冷酷な金持ちにとっては貧困にあえいでいて今にも死にそうな人たちの命の価値ははした金以下だってことなの?
別に金持ちに全財産を差し出せとか言いたいわけじゃない。ただあまりにもひどいんじゃないかと言いたいんだ。
わたしが喉元まで来ているけれど、言えないこと。もう察してくれてるよね? だからわたしはあえて言わない。
世界の貧困・飢餓問題を解決するには一体いくらお金があればいいのだろう。もしかしたら、世界の軍事費の一部を回すだけでもう問題は解決してしまうかもな、と想像してしまう。食糧については、公平な分配をすれば世界人口が120億人になっても十分養えるという試算があるくらいだから、現在70億の人間が食べていくことは十分できる。だから、意外と世界がやる気になれば、案外すんなりと大方の問題は片づいてしまいそうなのだ。
この矛盾だらけのどうしようもない世界に終末が訪れて、最後の審判が行われる時に私利私欲を肥やした金持ちたちは断罪されるのだろうか。わたしはすべての人に救われてほしいって考える方だけれど、それでもこの闇を前にすると、やっぱり裁きはあるのかなって思ってしまう。イエスさまは金持ちたちに鉄槌を下されるのだろうか。復活した金持ちたちに裁きを下されるのだろうか。でも、金持ちってどこからどこまでがそうなの? 日本人はアフリカの人たちと比べたら貴族のような生活ぶりだから、多くの日本人も金持ちとして認定されてしまうのだろうか。神様の金持ちの定義って分からないなぁ。それはともかくとして、聖書に金持ちとラザロの話が出てくるんだけれど、わたしは貧しいラザロのような人にしっかりと何か出来ているだろうか。金持ちになることばかりに憧れてしまっていて、ラザロを足蹴にしていないだろうか。視界に入れないように、見ないように無視してしまっていないだろうか。こんなことをわたしは反省してみる。他にも、貧しい人に施さなかったがために地獄行きが決まってしまうっていう話も聖書にはしっかりあったよね。わたしはそれらの話がとても身につまされる。「じゃあ、あなたは何をやっているんですか?」と聞かれようものなら、「一応できる限りの寄付はしていますけど」くらいのことしか言えない。
お金。わたしはこのことを考え出すと、自分のどす黒い負の感情がこんこんと沸き出してくるのを感じる。お金は人間を狂わせるものでもあるんだと思わずにはいられない。でも、だからこそ使いようによっては人を幸せにすることもできる。お金は人を生かしもすれば殺しもするんだな。
わたしは20年くらい前にあの箴言を聞かせてくれた教師に今だったら何て言ってあげようかな。そうだな、こう言おう。「たしかにわたしたちは金持ちが使うはした金を得ようと人生でもがきます。でも、その金持ちから見たらはした金にもならないようなそんなわずかなお金であっても、みんなで貧しい人に持ち寄ればそれはとてもあたたかいお金になるんです。金額は金持ちから見たらやはりはした金にすぎないことでしょう。でも、金額もあるかもしれませんが、その善意はどんな大金よりも優ると思います。やりきれない世の中に小さな灯りをともしていきましょうよ。」
あたたかいお金の使い方をしていけたらと思った星なのでした。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。