つまらないものはつまらないでいいじゃん

いろいろエッセイ
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 先日、あまりにも煮詰まってやっていられないと思って、東京へとまた行ってきた。
 日本の首都である大都会、東京。その街の欲望が渦巻いている様子は静岡なんてものではなくて、ものすごくどす黒いものがそこかしこに流れている。
 特にわたしが降り立った新宿駅とその周辺にはおびただしいほどの若者たちがいて、みな、自分が好きな格好をして、好きなことをして、好きなように生きていた。もちろん、歩くスピード、ペースは静岡よりも格段に速くて、街全体がせかせか、せかせかしている。そして、久しぶりに行った東京で今までとは変わってきていると思ったことは、駅や道などで、みんなが普通に歩きスマホをしていることだった。静岡でも最近増えてきた歩きスマホだけれど、何かこれを常識であるかのようなレベルでやっていたのには驚いた。まぁ、当然と言えば当然と言ってもいいかもしれない。スマホは都会での暮らしと相性が抜群なのだろうから。どこまでも無駄を省いて合理的にスピーディーに利益を求めていこうとする都会的なあり方にマッチする。が、さすがに小学校低学年くらいの小さな女の子が歩きスマホをしているのを見た時にはヤバいなって思ったけど。世も末なのかもしれないなって。
 人、人、人の人の波の中で、あまりにも人が多いものだから、わたしが今ここで一人消えていなくなっても、誰も気が付かないだろうなって思った。静岡の街以上にそのことを突きつけられているような感じがした。いてもいなくても同じであるかのような、そんな強烈な感覚に襲われた。
 けれども、新宿を歩いている人たちを見ていたら、ふと思ったことがあった。それは、自分が好きなように生きていいんだなっていうこと。彼らはみな、それぞれ自分にとって何かしらの目的を達成するためにこの街にいて、今、この場所を歩いている。だから、自分が興味があることに対しては貪欲だけれど、そうではないことに対しては全くもってして無関心。彼らは自分たちがつまらないと思ったり感じることに対して「それ、つまらないですね」とあからさまに言うことはしないだろうけれど(そこまで子どもではないだろうから)、何も言わないでつまらないと思うものやことをスルーしていく。それはそうだろうと思う。だって、東京のショッピングモールやデパートですべてのものやことに注意を向けていたら、どれだけ時間があっても足りないのは言うまでもないことだから。だから、スルーする。スルーして流していく。昔、ヒットしたお笑い芸人の小島よしおの「そんなの関係ねぇ」を持ち出すまでもなく、自分に関係があるもの、関係を持ちたいと思うもの以外はすべて切り捨てていく。
 そんな彼らの様子を見ていたら、自分に嘘をついてまでして、面白くないなぁとか、つまらないなぁと思うものを面白いと思わなくてもいいんじゃないかと思えてきた。だって、自分にとってつまらないものはつまらないし、魅力的なものはキラキラしているように見えるし、面白いものは面白いのだから。
 よく、人にゴマをすって、忖度してヨイショ、ヨイショしている人を見かけるけれど、あれはつまんないなって思う。というか、思ってもいないお世辞を言うことは、嘘をついているだけ。最近、おばさん二人組(この言い方が差別的なら「中高年の女性二人組」と言い換えておこう)が歩いていて、片方の人がもう一人の人に、着ている洋服が素敵で似合っていると言ってほめていた。でも、わたしにはその人が着ているものが全然似合っているようには見えなくて、嫌な感じの金持ち(それも小金持ち程度の)だなとしか思えなかった。ちょっとこれはお世辞にも似合っているとか言えないだろうという感じで、どう見てもお金を持っている感じのその人と友達でいたいからというのが見え見えだった。それを見て、つまんねーなと思った。ほめているほうのおばさんが連れのその人と付き合っていることでどんな利益を得ているのかわたしは知らない。また、そのおばさんはお世辞ではなくて、本気でいいと思っていて言っていたのかもしれない。でもね、うまいものを食い過ぎたタヌキがお高い洋服を着ているだけにしか見えなかったんだけど。みんな、そういうことを言ってはいけないとわたしをたしなめるかもしれないけれど、実際そんな感じで、みんな口にしないだけで、ぱっとそのおばさんを見たら思うだろうけどなぁ。
 つまらないものをつまらないと思う。つまらないものを無理に面白いと思わなければと頑張らない。つまり、自分に嘘をつかないで建前やお世辞や思ってもいない綺麗事を言わない。「あなた、つまらないね」「あなた、面白くないね」などとあからさまに相手に面と向かって言うことはしなくても、自分に正直に生きて、つまらないと思うことからは距離を置いて、自分がやりたいようにする。
 で、わたしがそういう風にし始めたら、何だか人間関係が急に殺伐としてきました(笑)。おぉ、こえーよ。こえーよ。ってくらい殺伐としてまいりました。自分が「この人、つまんないな」と思っていると、どうやらそれを口に出さなくても相手にはしっかりと伝わるようで、こちらがスルーするような態度を取ると向こうからもスルーされる。当たり前、当然と言えば当然ですけれど、人はスルーされることが基本的に嫌だし不快なんでしょうね。だから、カウンセリングや障害者福祉などの人と関わる現場では相手をスルーするということは絶対にやってはダメなことだし、やると問題が生じてきて、最悪の場合には死者がおそらく出る。スルーしたり、放置したり、無関心というのが一番ダメなんですよ。でも、カウンセリングにしろ障害者福祉にしろ、対人的なお仕事というのは仕事ですから。仕事だからキッチリとやらなければならないだけのことだとわたしは思うのだけれど、どうなのだろう? となれば、わたしが以前いた教会の怠慢牧師のように、人と関わらなければならない仕事であるはずなのに自分が好きな人たちだけとしか関わろうとしないのは論外だとしても、プライベートではどのように振る舞おうと自由ではないかと。そもそもプライベートは仕事ではないから、スルーするも放置するも無関心でいるも自由だと思う。そこに義務はない。義務としてあるのは法律に違反しないとか、基本的なモラルを守るとかその程度のことで、それ以上のことはしたくなければしなくていい。
 と言いつつもわたしは昔、教会生活を5~6年は真面目にやっていた人間だから、どうしてもその名残というか、油断すると(笑)人から、それもみんなから好かれようとしてしまうんだよなぁ。たしかにそういう誰からも好かれるいい空気を放っている(ように見える)人もそれはそれでいいとは思う。でも、そういう感じでやっていると敵は少ない(ほぼいないと言ってもいい)ながらも、わたしの場合にはすごく疲れてしまう(笑)。だから、一長一短なのだろう。どういうことかと言えば、みんなから好かれようとすれば、「この人の話、聞いていてもあんまり面白くないんだよなぁ」と思うことがあっても、いい人でいたいものだから、自分の自然な感情に逆らって我慢してその話を面白いとは思えないのに「今の話、すごく面白かったです」と言ってしまう。そうするとその人から気に入られて、会うたびに面白くもない話を延々と聞かされることになる。それを続けていけば、「ぜひ家に遊びに来てください」という風に発展していき、最悪、一日中、朝から夕方までそのつまらない話を聞かされることになる。大変だよね、そういうの。
 で、つまらないものをつまらない、面白いものや興味があるものに対しては面白いと自分に嘘をつかずに正直にいることを徹底させていくと(つまり、徹底させすぎると)、ものすごく利己的で嫌な感じの人が出来上がる。一丁あがりって感じです。わたしの知っている人で露骨なまでにそういう人がいて、その人すごいですよ。自分が仲良くしていたい人(関わっていてメリットがある人)にはゴマをすりまくって満面の笑顔で接する一方、そうでない人には全くもってしてノータッチで無関心そのもの。その温度差がすごいことと言ったら。ここまで相手によって態度が違う人っているんだと思うくらい温度差がある。で、わたしはスルーされているわけなのさ。あからさまにいじめてきたり、暴言をはいたりとかはしてこないけれど、スルーされてます。これがハブられてるってやつですか?(笑)うーん、都会的と言えば都会的で、合理的と言えば本当に合理的だけれど、露骨にあからさまにそういう態度を取るのってどうなんだろうと思ってしまうレベル。
 とくれば、こちらもスルーします。というか、その人の言っていることはつまんないし、価値観も波長も全く合わないから。わたしが嫌いなタイプの人ですよ。何かわたしの父と弟にすごく似ていて嫌。つまらないことはつまらないと自分に正直でいたいとは思うけれど、そこまで露骨に人によって態度が違う人にはなりたくないな。なんて言いながらも、わたしは、その父や弟や、わたしをスルーしてくるゴマスリな人のあり方へと方向としては向かいつつあるわけで、それをどういう風にしていくのかというのはとても難しい話ではある。
 最近、自分を観察してきて分かってきたことは、そんなに人間関係が要らないようだということで、広く浅くみたいな人間関係は求めていないんじゃないかと。それよりも、人数は少なくていいから、狭く深くのあり方を求めているんだろうなって。それに人と必要以上に群れて一緒にいてもあんまり楽しくないし、一人で過ごしているほうが楽でいいということも分かってきた(大人数での食事会とか猛烈に疲れる。グループでの会話も激しく消耗するだけ)。完全に孤独になってしまうのは嫌だけれど、だからといって、いつもいつも、誰かとつるんで一緒にいたいわけではない。自分が一人でできるやりたいことをやっている時が充実して幸せな時なのだろう。それなら、別にそこまでして人間関係にこだわらなくても、みんなから好かれようとしなくてもいいんじゃないの、とも言える。基本、一人が好きで、その時が楽しいのなら、無理してワイワイする必要もない。
 っていうか、わたしのことを良く思わなくて、わたしもその人のことをつまんないなと思っているような、いわば逆の意味で相思相愛な人は、また似たような感じの人たちと仲がいいから不思議。わたしのことを良く思わない人たちは、つまり反わたし(わたしとは星のことね)のような人たちは彼ら同士で話が合うらしく、つるみ始めて友だちになることが多い。要するに、わたしが「この人(たち)、つまんないな」と思った人たちは、言い方は悪いけれど、つまんない人たち同士でやっていってくれるわけだ。なら、別にいいじゃないですか。ま、気の合う者同士で勝手にやっていってくだされば。わたしはあなたたちのことをつまらないと思っている。そして、あなたたちもわたしのことをつまらないか、ちょっとなぁと思っている。ならいいじゃん、ってね。
 でも、わたしが彼らに言いたいことは、露骨にそれもあからさまに人によって態度を変えるのはどうなんだよ、ってことかな。あまりにも下品すぎる。露骨すぎて下品じゃないのって言いたくなってくるけれど、冷戦が続くんですかね。無関心という冷戦が。
 とか、まぁ、どうでもいいか。わたしがつまんないと思う人たちはつまんない者同士で仲良くやっていてくれればいいだけだし。
 わたしの居場所はどこにある? いやいや、自分という場所が居場所なのかも。なぜなら、自分の考えていることが一番しっくり来て、一番納得できて、一番好きで、一番面白いからね。当たり前だけど。自分の考えていること、そして自分という存在が、一番つまらなくて、しっくりこなくて、訳が分からなくて、嫌いになった時、生きることをやめるんだろうなって思う。そう考えたら、他の人に承認や賞賛や同意を求めなくてもいいのかもしれない。どうなんだろ。

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