最近、ふっと時々、むなしい感じになって死にたくなることがある。そして、自ら命を絶とうとはしなくても、2~3年以内に死ぬような気がしてならない。歩いていると無気力とは違う諸行無常の響きがわたしをこの世界から一人、遊離させているかのようで、それだったら以前からやってみたいと思ったことをやっていこうと改めて決意した。
で、その一つとして髪を染めてみようと思った。わたしが高校時代、だから2000年前後になるのだけれど、その頃はみんなおかしいくらいに茶髪だった。若者は基本的に茶髪といった感じで、どこもかしこも茶髪。もちろん、黒髪の人もいたものの、ほんとみんな染めていた。あの頃の芸能人の茶髪率はかなり高かった。わたしにとってのアイドルだった広末涼子さんも正統派ながらも、あの年代の時には茶髪だったんだ。
当時のわたしは髪を染めることにまったく興味がなかった。どちらかと言うまでもなく、完全にオタク系という感じで、高校の同級生たちが華麗に髪を茶髪にして変身を遂げていく中、我関せずだった。
そんなわたしももう40代となり、「そうだ。やってみよう」と一念発起して髪を染めることにチャレンジしてみたという次第。
髪の毛を染める。ただ、それだけのことなのに世界が少し、いや結構変わったような気がするくらいだから、人の見た目の変化というものは侮れない。というわけで、いくつか気付いたことなどを書きたいと思う。
まず、まわりの人たちからの視線が変わる。そして、彼らのわたしへの対応も今までとは違う感じになってくる。若い女の人からの視線が今までとは違うとひしひしと感じる。茶髪にしてみて少々チャラい感じになったわたしは彼女達からとても魅力的に見えるのか、今まで以上に見られている。明らかに見られている。っていうか、完全にシティーボーイだ。自分でも都会風の男になったと思うくらいなのだから、その都会的な雰囲気が好きな人たちからはウケているようなのだ。
が、一方でこうした少々チャラい感じのお兄さんが好きではない保守的な人たちからは遠巻きにされて距離を置かれるようになった。個性的になればなるほど、一部の人たちからは熱狂的に支持され、それ以外の人たちからは冷めた目で見られるようになる。それは当然のことで仕方がない。わたしがもしも、頭を緑色のモヒカンにしたら、一部の、それも本当に一部の人たちからは「お前、すごくいいじゃん。最高だよ」とほめられるだろう。でも、多くの人たちからは「あの人は大丈夫なのだろうか」と思われて警戒されるのは目に見えている。今回のわたしの場合、茶髪と言っても極端に赤や黄色っぽい茶髪ではなくて、地味な栗色がもう少し明るくなった程度だ。けれど、その程度であっても、何も染めていない時よりも、賛否が分かれるようになった。つまり、何かを得れば何かを失うということ。何も失わずに何かを手に入れることはできないのだ。
保守的かどうかは分からないながらも、確実に言えることは同性の、つまり男性たちからの視線が今までよりも厳しくなったことだ。それも特に年輩の人たちから。今風のチャラい風貌のお兄さん(年齢的にはわたしは中高年のおじさんだけどね)がおじさんたちと対立するのはもっともだと思う。今風のお兄さんたちには理屈がある。そして、同様に保守的なおじさんたちにもちゃんと理屈がある。となると、その理屈が対立してぶつかる。ぶつかるのだけれど、多様性とか共生ということが言われていて、コンプライアンス遵守の世の中になったから、あからさまに無視したり、敵意をむき出しにすることはできない。となると、おじさんたちはどう接してくるかというと、最低限度の関わりをしてあとは関わろうとしないという態度をとる。
まぁ、男というのはオスであって、メスである女の人の奪い合いをしているような生き物だから、自分よりも優れていたり、魅力的な同性というのは脅威なのだと思う。脅かされるわけだから。
でも、まぁいいのよ。問題なしなのよ。男に好かれたいとかそういう気持ちはあんまりないから。男から引かれているということを書いたけれど、一方で同じような感じのお兄さんたちからは見られるようになった。茶髪や金髪のお兄さんたちは同類のわたしのことが気になるのか見てくるのだ。または、髪を染めていない今風の感じの男の人も見てくる。類は友を呼ぶとの言葉の通りで、電車でわたしの隣の席が空いていると、結構、いや、かなり今風のお兄さんが座ってくることが増えたと思う。あと体を鍛えている感じの人もちょいちょい隣に来る。
周りからの視線が変われば、もちろん態度も変わってくる。何か女の人たちが前よりも優しくしてくれるようになった。と言いながらも、ごくごく少数の保守的なおばあさんはドライな態度を取ってくるけれど、それは例外。
なんて書くと、「お前、調子に乗ってんだろ」と特に男性たちから批判されて叩かれるかもしれない。調子に乗っているかどうかと言えば、語弊がどうこうと言うまでもなく乗っていると思う。これは完全に新婚のカップルが自分たちの幸せな毎日をノロけているのと同じようなものだと自分でも思うし、これを読んでいてムカついている人もいることだろう。でもね、たぶんもうすぐ死ぬと思いますから、セミが死ぬ前に大きな声で調子に乗ってミンミン鳴いてあがいているだけだと思って大目に見て見逃してください。死が近付いた末期のがん患者が好きなものを好きなだけ食べたり、死刑囚が死刑の前日にごちそうを食べるのと同じようなことだとぜひぜひ寛大な目で、おじいさんが孫を目を細めて見ているような感じで、このわたしの調子に乗っている失礼な駄文を怒らずに傍観していてほしいってなわけなのです。
そして、自分が茶髪にしてみると、まわりで同じように髪の毛を染めている人たちのことが意識に止まるようになった。茶髪や金髪のお兄さんの存在が前よりも身近になった感じがするし、女の人を見ても髪を染めている人かどうかという視点が新たに加わった。すると、今まではまったくと言っていいほど気が付かなかったのだけれど、おばちゃんたちの茶髪率って高いんだよ!! おばちゃんたち頑張ってるんだなぁって思った。人知れず、まめに美容院に行って髪を染めてるんだろうなぁって今までまったく気が付かなかったことに気が付いた。おそらく白髪を茶色に染めているそのおばちゃんたちは美容院へ行ってそれなりに結構高いお金を出しているんだなぁって思うと、男性陣はそれに気が付いてあげなくちゃダメだなぁって思ったわけです。結婚している女の人がダンナさんにキレることとして、昔からよくあるのが髪を切ったのに気付いてもらえなかったということで、その気持ちは本当ものすごく共感できる。わたしなんかは本当に必要最低限のカットとカラーしかやってもらっていないのだけれど、おばちゃんたちは少しでも髪の毛をツヤツヤさせようとか、いろいろオプションをつけて頑張ってるんだろうなって思うと涙ぐましい努力じゃないですか。本当、おばちゃんたち頑張ってますよ。
言うまでもなく、ファッションは、なくても生きていけるものだ。衣食住としての「衣」はなくてはならないものだけれど、何もオシャレをしなくても困らないと言えば困らない。要らないと言えば要らない。それだけはたしかだ。とすると、衣食住にもあてはまらない髪の色をどうするかということは、一言で要ってしまえば単なる嗜好品のようなもので、わざわざ染めなくても何も困ることはない。けれども、髪の色を変えてみたらまわりのリアクションが変わる以上に自分の気分や意識が変わった。わたしが自分のことをこう思っているという自己イメージが上書きされて更新されたかのようだったから不思議だ。ただ髪の毛を茶色に染めて少々チャラい感じにしただけなのに、自分の内面もそれに引っ張られるかのようにチャラくなっていくのは面白い。
同じわたしであっても、ジャージを着ている時とスーツを着ている時とでは精神状態や自己イメージが違う。まるで別人のようになっている自分がいる。そうだとしたら毎日24時間肌身離さず身に付けている髪の毛は洋服以上のものではないか。以前、これに近いことが本に書いてあって、すごく納得した自分が今、ここにいる。わたしがさらに髪の色を明るくして目立つ色にしていけば、またその時にはまわりからの目と自己イメージもおそらく変わっていくはずだ。
今回、どうしてわたしが髪を染めようと思ったかというと、軽くなりたかったから。軽く? 軽くって何を軽くしたかったのさ? そう聞かれたら、わたしという存在を軽くしたかったと答えるしかない。でも、やっぱり人は見た目を変えても、中身はあんまり変わらないようで、わたしの見た目と相手(特に初対面の人)が想像していたイメージにギャップがあるらしく、少しばかり驚いた顔をされることが多い(もうちょっと適当な感じで返しが来るかと思ったら真面目に来るものだから驚いているような感じ)。要するに真面目ちゃんで重いのだ。物事に対して真正面からぶつかっていこうとするから、雑談でさえも気が付くと重くなってしまう。それを茶髪にしたことで軽くできたかと言えば、軽くなったことは軽くなった。ほんの少しはチャラくなった(ように思う)。あるいは無意識下で、自分が好きなタイプの女の人にふさわしい男になろうとしていたのかもしれない。茶髪の女の人がわたしの好みだから、きっと注目されたかったんだろうな。
そして、茶髪になったセミさんはいっぱい鳴いて、いっぱい求愛行動をして、いっぱい交尾をして、子孫をたくさん残して死んでいきましたとさ。ということは、わたしの人生は子孫を残すためにあったのだろうか? どうなんだろ。うーん、分からないですな。交尾には興味があるけれど、子孫をどうこうというのはほぼ興味がない。
ま、鳴きましょう。交尾しましょう。そうしたら結果として子孫が残せるかもしれません。でも、求愛もセックスも子どももわたしにとってはどうでもいいことなのかもしれないとまた一方では思ったりもするのです。
たぶん、もう残り時間が少ない。セミと同じように、わたしの人生という夏が終わりそうな、そんな予感がする。道にころがっているセミの亡骸の頭の上のほうが何だか茶色く見えた。と、最後に少々、フィクションで盛りまして、茶髪談義を終えようかという次第。茶髪のセミっているのかな? アホな質問をしましたね。すみません。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。