人生の答え。いろんな人たちが「これが答えだ」と言う、その答え。
わたしはずっと答えを求めてきた。答えがほしくて「何が答えなんですか?」と本や人などからそれを得ようとしてきた。そして、いろいろとやっていく中で、だんだんそれが見えてきて、ここ最近、たぶんこれが答えなのではないかというものにたどり着いた。
何かの達人でも成功者でも何でもない平凡な凡庸そのもののわたしが見つけた答えだから、権威もなければ説得力もないだろう。インドへ行って長年ヨガの修行をしたわけでもないし、瞑想などを師についてとことん深めたわけでもない。要するにやっていることが中途半端。それに勉強だって東大とか名門大学に受かったわけでも、そこでたくさん勉強したわけでもなく、最終学歴は大学中退のしがない高卒でしかない。仕事だってそうだ。「仕事をするんだ」とか何回も言いながらまだ何もやっていなくて、もう40代にもなるのに職歴は白紙そのもので何もない。人付き合いだってそうだ。親しい友達は一人もいないし、彼女もいないし、結婚したこともなければもちろん子どもだっていない。家庭を持つという経験もしていない。わたしがやっているブログだってほとんど誰にも読んでもらえていない感じで、わずかなアクセス数しかなくて、お世辞にもブロガーとして人気が出たわけでもないし、収益についてもゼロの状態がひたすら続いている。だから、こんな無職でやることなすこと中途半端でどれもモノになっていないような男が何を言っても多くの人は見向きもしなければ、その話を聞きたいとも思わないだろう。
でも、人生の答えというものは、何者かになることができたり、何かの道で成功できたり、ちゃんとしている、やるべきことをやっている、立派な人だとまわりの人たちから認められれば分かるものではない。その答えは一人ひとりが自分で見つけていくものでしかなくて、日々のこの自分の暮らし、生の営みの中で探究して求めていくしかない。
多くの人が考えている人生の答えは当たり前だけれど、多くの人がそう考えて思っているというだけのことでしかない。いわばメジャーというか、人気がある答えと言ったらいいだろうか。人気がある人生の答え。つまり、多くの人たちから支持されて受け入れられている答え。
いや、そんなそれぞれの人がどう考えるかどうかということとは関係なく、太古の昔から、人類が、地球が誕生するはるか前からもうすでにあるんだよ。だから、人はそれに従えばいいだけで、もっと言うならその答えにすべての人が従うべきだ。そう信じて思っている人もいるかもしれない。その本当の人生の答えに従わない人は間違っていて迷っている! この答え以外のものは邪道で邪教だ。なかなか過激だけれど、そう思っている人もいることだろう。
けれども、わたしは思う。その人生の答えは多くの人たちから支持されて「その通りだ」と共感されなくてもいいのではないかと。その答えだと思うものが自分にとって腹の底から深く「そうだ」「そういうことだったのか」と納得できているなら、もうそれでいいはずだ。自分にとってそれが本当のことだと思えていれば、それが荒唐無稽なものだったとしても、それは自分にとってはまさに本当のことでそれが自分にとっての答えだ。この話をお坊さんから聞いた時、わたしは「本当にそうだ」と思った。無理をしてみんなが思う答えに合わせなくていい。それはみんなが思う答えだから、それが違うと思うなら違うと思っていればいい。わたしにとっての真実、わたしにとっての答えを求めていけばいいだけのことで、みんなが言っているからとか偉い誰々さん、すごい誰々さんが言っているからということは関係ない。もちろん、その偉くてすごい人の言うことはおそらく核心をついていることが多いだろう。物事の本質を射抜いていて鮮やかで完璧で美しいことだろう。でも、それがどんなにすごくても、自分がそれを違うと思ったり、違和感があって納得できないのであれば、その答えは自分にとっての人生の答えではないのだと思う。
ある人は「人生の答えはあんパンを食べることだ」と言う。また、別の人は「たくさんの女の子たちと遊んでセックスしまくるのが人生の答えだ」と言う。かと思えば、また他の人は「人生の答えは人を幸せにすることだ」と言う。他には「人生の答えは3だ」という不思議なよく分からないことを答えだと言う人もいることだろう。とそこへ「不幸になって破滅することが人生の答えだ」と言う人がやってきて……。
そして、このわたしが現時点でたどり着いた人生の答えは、すべてが幻だということ。この現実は幻であって、実在していなくて、無意味で無価値で無目的。醒めない夢のようなものであって、今のところこの夢が続いている。夢や幻でしかないのだからわたしはどうあってもよくて、真面目に生きてもいいし、自堕落に生きてもいいし、中庸に生きてもいい。この生という幻を続けてもいいし、終わらせたくなったら終わらせてもいい。生きることに意味や価値はない。同じように死ぬことにもそれらはない。だから、ただこの幻を生きている。生きたいように生きるでいい。でも、この世界と現実が幻で夢だとしても、その中でわたしは意味や価値や目的を見出す。そして、その見出したものに儚い美しさを見て、感じて、楽しんで、愛おしむ。そんな調子でやっていくといつかはこの幻の夢も終わる。輪廻転生のごとくまた生まれ変わるのか、それとも天国か地獄へ行くのかは分からない。その来世も天国、地獄も夢、幻でしかなくてこれまた夢を見ているだけでしかないから、また新しい夢が始まる。わたしはこれをおそらく繰り返して、この夢のループも気が付いたらいつかは終わっている。その時、わたしはもう無や空そのものになっていて、意識はなく、大きな存在に包摂されてその一部として溶けていて存在しないという形で存在している、のかもしれない。
と、このようにわたしが書けば、相当アブナイ感じのイっちゃってる頭がおかしい人だと多くの人が思うことだろう。この形而上学的で、現実に地に足がついていない、下手をして方向を間違えれば何をしでかすか分からないような危険な不気味ささえ漂っている空気。でも、これが今、わたしが思っていることでたどり着いた人生の答えだ。これが妄想や空想でしかない可能性はゼロではないからわたしは根本的に間違っているのかもしれない。この現実は自分が肌身で感じている通りにちゃんと実在しているのかもしれない。常識的に考えれば訳が分からないことを言っている。それは分かっている。分かった上で、
それでもわたしはこれが答えではないかと思って信じている。この現実が幻か、それとも実在しているかどうかということは確かめようがないことであって、双方の立場の人が議論をしても平行線になるだろうし、検証して証明しようとしてもそれさえも五感という知覚があってこその検証で証明なのだから決着は着かないし、着くはずがない。けれども、多くの人がこの現実があると感じているのと同じようにわたしはないのだと感じている。そして、この現実が幻だというのが人生の答えだと今の現時点では思っている。
だから、ヨガをすること、自分を律した生活をすること、健康的な食事をすること、真面目に生きることには意味はない。もちろん価値もないし、目的もない。心と体を整えましょうとヨガで教えるのは、この現実が幻で実在しないということに気付くため、気付きやすくするためだと思う。この幻が荒れ放題の台風のようだったらそれをしのいでやり過ごすしかないから、幻だということに気付けない。わたしがどんな風に生きても、真我という真実にはまったく関係がない。真我はただあって、どんなものからも影響を受けたりはしない。どんなに自分を律して清く美しく生きても、傍若無人の限りを尽くして好き放題に生きてもそんなことはお構いなしに真我はある。幻がどうあってもそれは幻でしかないのだから、意味はない。だからこそ、幻の中に登場するすべてのもの(万物や出来事など)も幻である以上、等価だということになる。このことに気付けるかどうか。それだけだと思う。
それなら、なぜ意味がなくて無価値だと分かっているのに、それでもヨガをやっていくのかという話になってくる。それに加えて、どうして真面目に自分を律して生きていこうとするのかということにもなってくるのは避けられない。なぜヨガをやるのか、という問いはなかなか難しい。いや、そもそもこの現実が幻で夢だとしたら生きる意味がないということになるのに、それでもどうして生きるのかということだ。何でだろう? 適当な答えのようであっても、突き詰めていくとこれしかないと思うのが、ヨガをやりたいから、生きたい、生きていたい、消極的に言うなら、死にたくないからだ。本当にヨガをやりたくなくて嫌いそのものだったらもうとっくにやめている。生きることについても本当に嫌で嫌で仕方がなくて100%完全に死にたいと思っていたら、まわりが何をしようがもうすでに死んでいるだろう。この現実がたとえ夢や幻だったとしても、好き嫌いはあって、やりたいことはやりたいし、やりたくないことはやりたくない。好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌い。快いものは快いし、不快なものは不快。
哲学者の中島義道が昔、面白いことを本に書いていた。ある人がその日、決められた場所に来なかった。「どうして来なかったのか?」とその理由を相手に尋ねる。そうすると相手はそれなりにもっともらしい理由を答えようとする。でも、言うまでもなく来なかったのは「来たくなかったから」だと中島義道は喝破していた。来たかったら来ているし、来たくないなら来ていない。それだけではないかと。勉強にしても何にしてもやりたければやっていて、やりたくなければやっていない。
意味、価値、目的があるかどうか、といったこともそれなりにやる気に作用することは作用するだろうけれど、純粋な子どもの遊びを見ていれば分かるように、意味、目的、価値があってもなくても、それをやりたいと思えばやっていて、やりたくなければやっていない。嫌々やっていると自分が思うことであっても完全にやりたくなかったらやっていないはずだ。
ヨガは、そして生きることはこの現実という幻の中で踊るダンスだ。幻だから究極的な意味においては何の意味もない。価値もなければ目的を立てたところで仕方がない。でも、踊ることは楽しいことだ。子どもの遊びのようにただ今やりたいからやっている純粋な行為だ。一心不乱にヨガをやってポーズをしている時、無心になれる。今、この瞬間にあることを感じる。たとえそれが幻でしかなかったとしても、今ここで幻を見て、感じていることだけは事実だ(厳密に言うと、それさえも幻ではあるものの)。
また、幻だからこそ、この世界は美しいとも言える。輝いているとも言える。その美しさ、輝き、それらを美しいと思っている自分。それらがすべて幻だからこそ、逆にいいのではないかとさえ肯定したくなってくる。徹底的にこれは幻で夢で空なのだと否定したからこそ立ち現れてくる肯定がここにはある。
と、頭がおかしい妄言ばかりで大丈夫なのかと心配してくださる方もいるだろうと思う。でも、5年後か10年後くらいに「すべてが幻だというのは間違いだった。この世界はしっかりとあるんだ」という考えをわたしが持つようになっていて、毎日、意気揚々と仕事をしていて、結婚をして子どももいて、地に足のついたかっこいいパパさんになっているということがないとは言い切れないし、この先どうなっていくかということは分からない。5年後、10年後どころか、わたしが一昨年に見た2月に死ぬという夢のお告げの通りに来年のその頃に死んでいるかもしれないし、先のことは分からない。だから、人生の答えも変わっていくかもしれないし、変わっていくならそれでいいと思う。また、変わらなかったら変わらなかったでそれもまたいい。
今は踊っていたい。だから、ヨガをやっている。そして、生きている。幻の中で何のためでもなく、踊りたいから踊る。醒めない夢のような幻は今のところ続いている。でも、明日は分からない。だから、今日、今、踊る。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。