最近思うことがある。いや、前からもずっと思ってきたことだ。それは、わたしは誰からも愛されないのではないか、というわたしに巣くったいわば呪いのような言葉で、物事がうまくいかなかったり、人間関係で寂しさを覚えるときにふと頭の中に浮かんでくる。
でも、言うまでもなく愛されないのだとしたら、それにはちゃんと理由はある。それはわたしがその愛されたいと思っている人を愛していないからだ。自分が何も相手に与えていないのに、くれくれ、くれくれと受けてもらうことばかり要求する。虫がいいというか、ずるいというか。
わたしの人間関係はとても狭くて、毎日のようにヨガの道場へ行っているものの、特別に親しい友達ができたわけでもなく、師匠もわたしに対してはいたってドライで冷静な感じでプライベートで食事をしたりといった交友関係があるわけでもない。まぁ、それはもっともというか、ごもっともなことで、仮にわたしのような人がいたとして、その人と個人的に関わってプライベートなどでもお付き合いしたいかと言えば、そんな風には思えないからだ。自分ではこれでも控え目にして普通の振る舞いをしようと努力はしている。けれど、咄嗟に出てしまう。どんなに取り繕っていても本性というか、わたしが話をしているとそのズケズケした空気を読まない不快な物言いがひょこっと出てしまう。すると、相手はびっくりしたような、驚いた表情をする。「この人は何を言うの」みたいなリアクションをされてしまう。そして、またその人との距離が広がってしまって、気が付くとやっぱりわたしは蚊帳の外にいるような感じになっていて、もちろん皆さん優しい人たちだからあからさまに無視をしたり、否定したり、けなしたりはしないけれど、何か懇意に親しい関係になることができない。で、結局というか、親しい関係なのは精神保健福祉士のWさんと母だけで、うーん、どうなのかなという感じ。
と書くと、いかにもわたしが親密な人間関係を求めているかのように見えると思う。でも、実際は求めてもいないし、ほしいわけでもない。じゃあ、何でこういうことを気にしているかと言えば、どうやらわたしはその相手の言葉や態度から自分の価値を推し量っているらしい。「らしい」と少々他人事なのは、自分でもそこのところがよく分からないからだ。愛されたい、親密な関係をつくりたいと思うなら、積極的にその相手に働きかけてアクションを起こすことはまず必要なこと。でも、実際はその相手とどうしても親しくなりたいと思っているわけではない。むしろ、反対にわたしはドライな態度を取ってさえいる。つまり、自分では好かれようとしなくても好かれたいということなのだろう。こ、こ、これはものすごくわがままな人じゃないですか。最上級の、最高にわがままな奴じゃないですか。嫌だなぁ。こういう奴、本当嫌な奴だよ。そして、意味不明でもあるよ(笑)。自分はそっけないつれない態度を取っているのに、相手からは好かれて友好的な態度をとってもらって、さらに望むならちやほやしてもらいたい。虫がいいよね、を通り越して自己中そのもの。
そうか、そういうことだったのかと長年の疑問が氷解しましたけれど、それはともかくとして、人に好かれるにはスキルが必要だなということは常々感じる。スキルとして一番わかりやすいのは芸能人のアイドルやタレントだろう。彼らの顔を見てみろ。みんなほとんど例外なく笑顔じゃないか。気持ち悪いほどの満面のスマイルじゃないか。とにかく、いつもにこにこ、にこにこしていて笑顔を振りまいている。逆に苦虫を噛み潰したかのような顔をしている売れっ子のアイドルやタレントがいるかと言えばいない。中には個性派ということで売り出して、そういう路線で過去に攻めてみた女性アイドルもいたことにはいたけれど、気が付いたらすぐにいなくなっていた。やっぱり人から好かれるにはブスっとした不機嫌そうな顔ではダメなのだろう。愛嬌のない顔をしていてはおそらく好かれないのだろう。
ヨガの師匠が他の生徒さんとどういう関わり方をしているのかとさり気なく観察していると、やっぱりというか当然のことだけれども、いつも明るく笑顔で優しい言葉を使い、その師匠に対して思いやりのある言葉を返しているような感じのいい生徒さんに対しては総じて師匠は優しいし明るく話しかけて対応する。そういう生徒さんは、これまできちんと仕事をしてきて、今もしていて、その中で相手を思いやる気遣いを学んできたのだろう。プライベートもうまくいっているのではないかと思う。何しろ相手が求めていることに対してピントを外さないで適切な言動をとることができる。もちろん、余計なことは一切言わない。
そんな人間的に月とスッポンのような差があることを見せつけられていると、あぁ、やっぱりわたしはダメな人だなって思ってしまう。おそらく今のまま行くと、まず母が亡くなり、そしてWさんも結構、年上だからわたしよりも順番から行くと先に死ぬ。つまり、遠くはない未来にわたしは一人になってしまう。そして、誰とも親密な関係を築けないまま歳を取って老人になり、たぶん孤独死。
でも、そうなったらそうなったで仕方がない。なぜならそれはわたしが望んだ展開だと思うから。同世代またはそれよりも下の世代の男友達とか本当、正直まったくほしいとは思わない。いらない。となると、わたしがほしい人間関係って何なんだろうと自分の胸に手を当てて考えてみると、やっぱり女の子かな。いろんな女の子と遊びたい。そして、何よりもゲスなのは、その女の子の人格やこれまでの人生についてはほとんど興味関心がなくて、ただ遊びたいというところだ。
そういうことを相当前(何年前だったかなぁ?)に教会の牧師に言ったら「それは破滅ですね」と言われたけれど、何だかこじらせてしまったようで誰かを人格的に愛することは自分にはできないのではないかと最近思う。だって、この世の中はメリットで動いていて回っているでしょう? だから、誰かから見た時にその人がわたしのことを「使えないな」「ダメだな」「役に立たないな」「面白くないな」「うざいな」「関わりたくないな」「嫌いだな」と思ってそう判断したら、その人にとってはもうわたしはゴミでしかない。それまでは、いいね、いいねと面白がってくれたり、かわいがってくれたり、大切にしてくれていても要らなくなったらゴミ。だと思うのですけど、ドライ過ぎますか? でも、この世界に無条件の承認なんてたぶんなくてみんな条件つき。要らなくなったら相手に捨てられる。他にもおもちゃ(人)はたくさんあるのだからそれが要らなくなったら別の物にすればいい。街へ行くようになって別に自分がいてもいなくても同じようなもので、わたしの代わりはいくらでもいるんだなということを思うようになった。マッチングアプリなんてまさに人がモノとして扱われている。わたしはモノでいわば商品で、わたしよりも条件がいい相手が見つかれば必要なくなる。
こういうことを思ってしまうのはネットの影響だと思う。どこまでも合理化、効率化を進めてムダを省いていった結果、社会が殺伐としてきていることの顕著な現れだ。また、どこまでも生産性を高めて、人材をハイスペックにしたことも影響している。昔はみんなでワイワイガヤガヤとたくさんの人数で時間をかけてやっていた仕事が優秀なコンピューターに優秀な人材で短時間であっという間に少人数でできてしまう。そうなると、その平凡な人や仕事ができない人は要らなくなる。そういう社会で活躍するためには昔とは比べ物にならないくらいの高度な知識やスキルが必要となるから、一握りの人たちしか活躍することができない。
そういう社会になってくると、合理化、効率化の矛先は日常的なこと全般に向かってくるのはごく自然なこと。ムダをどこまでもなくそうと躍起になる。あれもムダ。これもムダ。どこまでもどこまでも切り詰めて合理化していくと、人類学者の辻信一さんも言うように「自分もムダなのでは?」ということになってしまう。自分は本当に必要なのだろうか? むしろ、いない方がいいいのでは、という方向へと話が進んでしまう。そして、最終的には、辻さんはここまでは踏み込まなかったけれど(これを言ったら大問題だから)人類そのものがいらなくてムダなんじゃないの、という壮大なムダに気付かざるを得なくなると思う。だって地球をここまで破壊したのはほぼすべてがヒトでしょう? 人類でしょう? 人類が滅べばエコだよね、という結論を避けることはできない。そもそも、ヒトが地球に対して何かやれているんですか、貢献できているんですか、という話で、そう言われると言葉に詰まってしまう。ここまで地球を破壊して荒らして食い尽くそうという勢いだけれど、どうなのだろう。
そこまで哲学的に問わなくても、自分は要らないのかもしれないと誰しもが思う時代。わたしも含めて多くの人が必要とされたいと思っていて、愛されたいと求めてやまない。そして、何よりもかけがえのない唯一無二の存在として扱われたい。
でも、現実にはそうなっていないし、なかなかそれが難しい。現にこの社会は差別的な場所だからだ。頭のいい人、何かに優れている人は賞賛されてちやほやされる。たくさんお金をもらうことができて、みんなからたくさんの尊敬も得ることができる。元々の家柄がいい人はみんなの憧れの的だし、美男美女は何をやるにしても得をして見た目がいいというだけでおいしい思いができる。それらは差別ではなくて区別なんだと苦しい言い訳をする人もいるけれど、それこそ差別なんじゃないのって思う。平等なら平等にしなよ。全部すべからく平等にしなよって思う。
と、少し脱線したのか、しなかったのか。話しがどうもまとまらない。で、最初の「わたしは誰からも愛されない」という言葉へと戻りたいと思う。今、ぽっと頭の中にある言葉が思い浮かんだ。それは開き直る言葉で、社会学者の上野千鶴子さんがよく使う切り返し方だったと思うのだけれど、「わたしは誰からも愛されない」として、「誰からも愛されなくて何が悪いんだ!」という一言。たしかに自分は誰からも愛されないという言葉を独り言であれ、発している時というのはそのことを良くないこと、悪いこと、ネガティブなこととして受け止めている。その上で自己否定をしている。だったらその前提自体を疑ってみるのもアリなのかもしれない。
そもそも愛されないことは犯罪ではない。犯罪をした結果、愛されないとか愛されにくくなることはあっても、愛されないことそのものが悪いわけではないし、何ら恥ずべきことでもない。というか、愛されたところで、それを別の言葉で言い換えれば「その(あるいは多くの)人があなたに利益(メリット)を与えてもらえたということであなたは好かれたんですね」というだけのことでしかない。だから、「ほっとけ」。あなたにいちいち言われたくないし、同情されたくない。上野さんが使ったとされる伝説の(?)開き直りはかなり強烈だ。
で、さらにもっと言うなら、誰かから愛されたとか愛されなかったとか、そういったことは本質ではないと別の観点から切り崩していくこともできる。これを言ってしまっていいものなのか分からないけれど(だったら言うなよ)、この現実も世界も幻か幻みたいなものですよ。うたかたの束の間の泡のようなものですよ。「愛されなくて何が悪い!」と開き直って逆ギレすることとはレベルが違うよね、この返し方は。「すべて幻だから」の一言であらゆることを葬り去っているわけだから、これがもしかしたら最強なのかもしれない。と書きつつも、この文章も所詮は、詰まるところは幻なんですよね?
お~い、星の40過ぎのお兄ちゃ~ん。いい加減目を覚ませよ~。現実逃避してないで現実を見ろよ~。幻とか夢とか地に足のつかないことをぐだぐだ言ってるなよ~。
いや、これは幻ですから。夢ですから。仮に夢とか幻ではなくてもそれにどこまでも近い同じようなものですから(ニヤリ)。
最後にわたしに一言、決定的なツッコミを入れたいと思う。
「誰からも愛されないとか言いながらも、星さんは今、少なくとも二人(Wさんと星さんの母)からは愛されていますよね?」
「いや、愛されていないですよ。愛されているように見えますけれど、その二人さえも幻に過ぎないですから(星自身はもちろん、Wさんと母も幻だということ)」。
二人の人に愛されているという幻を見ながら、この幻の中の将来で誰からも愛されないのではないかと脅えているこれまた幻のわたし。だったらいいんでないの? すべては幻なんだからさ。
ってヤバイね。クールどころではないヤバさだね。自分でこれを書きながらヤバイと思うもん。最近おかげさまで一回りまたヤバイ感じになりました。でも、痛いことや苦しいことは嫌。たとえ幻だったとしても痛くて苦しいからね。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。