今日はヨガの練習を休んだ。昨日、ちょっと寝るのが遅くなってしまってとても練習ができるコンディションではなかったからだ。
ヨガの師匠に「今日、休みます」とショートメッセージで連絡をして、それからごみの日だったのでごみを出しに行った。
今日は雨。雨が降っている。帰りになぜかは分からないけれど、近所にある小さな公園に寄りたくなって、そこで30分くらい時を過ごした。雨の音を聴きながら、ただ公園にある木を傘をさしながら、ぼーっと何をするわけでもなく見ている。
そうしているといろいろと雑念が浮かんでくる。いろいろな考えが頭の中で浮かんでは消えていく。目をつぶってはいなかったけれど、瞑想をしている状態に近い。
だんだん現実感覚が薄くなっていく。薄目をあけながら、わたしの意識はぼーっと、しかし冴えているような不思議な状態へとなっていく。これはいつもの感じで、このモードに入ると現実感覚が希薄になって、自分がまるで夢を見ていて幻の中にいるような感じがしてくる。
この現実が幻だと思うことについてそれとなく考えていたらいくつかのことに気付いた。それはまず、わたしは危ない人だなってこと。現実感覚の濃淡は人それぞれだから、濃い人もいれば薄い人もいていいとは思うのだけれど、それが薄くなっていって最終的になくなったらどうなるかと言えば、かなり危ないというか危なっかしい感じになってくる。
「この現実は夢か幻であって実在していない」。この主張をする時、その人は現実だとみんなが疑うことなく信じていて暮らしているこの世界をゲームのような架空のものだと言っていることになる。つまり、この現実は夢、あるいは幻なのだから何をやってもいいということになるし、すべてが幻なら倫理や善悪なども幻だということになり、そもそも責任だって生じないことになる。
基本的にゲームの世界の中で何をしようが自由だ。なぜなら、それは現実ではなくてゲームの世界の中の話なのだから。そのゲームの中で人を傷つけても、どんなに悪いことをしても責任は追及されないし、取る必要などない。よくある戦争ゲームがその最たる例でそのゲームの中でどれだけたくさんの人を殺しても、この現実(だとされている)で人を殺したからといって処罰されることはない。
だから、「この現実は実在しません。夢です。幻です。フィクションです」とその人が感じてそう主張することは、「この現実はゲームです」と言っていることとほぼ同じだ。となれば、人の喜び、悲しみ、怒り、苦しみ、痛みなどもすべてが幻だと言うからにはそれらも幻でしかないということになってしまう。目の前に苦しんだり痛みを感じている人がいたとしても、そのように見えるだけのことであって、その人自身は存在していないし、そうなればその苦しみや痛みを何とかしようとしたり、寄り添う必要もなくなる。ただ目の前にそういうふうに振る舞う人の幻が現れているだけだということになる。自分自身が何か身体的な怪我をして激痛に襲われても、何か精神的な危機に直面しても、そのリアルに感じられる痛みや苦しみさえも幻だということになり、こうなると徹底している。
この世界や現実が幻かどうかという真偽のほどは置いておいて、仮に実在していて、その世界の中では多くの人たちがちゃんと幻でも何でもなく存在していて暮らしているとしよう。そうなると、この現実感覚が普通にあってしっかりしている圧倒的多数の人たちからすれば、この「現実は幻です」とか何とか言っている人たちの存在が何をするか分からない危険なものとして見えるのは当然のことだろう。いわば精神異常者で何をするか分からないから何か事件を起こす前に、どこかへ閉じこめて収容するなり、その危険な感覚や考えをお薬を飲ませたりしてなくしてほしい。それができないなら、自分たちのところから出ていってほしい、ということになるかと思う。
でも、本当の真実を求めていくのであれば、究極的にはこの世界と現実があるのかどうかというのは誰にも答えられない超難問だと思う。真理と真実は多数決では決まらない。数が多いかどうかでは決まらない。また専門家が支持するかどうかでも決まらない。ただ真理や真実はある。それが本当のことだと思う。もしも全世界の99.999%の人たちがこの現実はあると信じていたとしても、そのほぼ全員に近い人たちが実は間違っている可能性は十分ある。たとえある意見や考えを持つ人が世界中で10人、いやもっと少なくて1人だけだったとしてもそれが正しいことだってあるかもしれない。また、権威とされている大先生が「これが正しい」「こうすべきだ」「こうした方がいい」などと太鼓判を押したとしても、過去の歴史を見れば、その偉い先生が利害関係などから事実をねじ曲げて公害などの被害を拡大したことなども現にあって、専門家の言うことだからといって必ずしも正しいとは限らない。ましてや、わたしが思うには、どんなに偉い学者の大先生でもこの現実が実在しているかどうかということには答えられないと思う。だって無理でしょう。五感で知覚して世界や現実があるように感じているだけで、第六感とか特別な力を用いているという話ではないのだから。
この現実があるのかどうか。実在しているのか、それともいないのか。こんなことどうだっていいと多くの人は思うことだろう。
「だってあるじゃん。現にあるだろ。そう感じるだろ」の一言で片付けられてしまうのは言うまでもない。でも、多くの人たちがちゃんと現実感覚が感じられるのと同じように、そういった感覚が希薄になってきた人、ない人というのは少数ながらいる。この数少ない人たちが真実にふれているかどうかは分からないし、絶対彼らが正しいとも断言できない。けれども、わたしはこの現実は幻だと思う。あるいはもう少し譲って、少なくとも幻のようなものではないかということは確かだと思っている。
だからこそ、だからこそわたしはこの幻の中で踊りたい。井上陽水の「夢の中へ」という曲の歌詞のように、探したり考えるのではなくてただただ無邪気に踊りたい。幻だから何をやったっていい。何をやっても許される。そう考えることもできなくはないし、ダークサイドに傾くならそうなるだろう。でも、どうせと言うのも何だけれど、この現実が夢や幻なら暗くて悲惨で破滅的で暴力的なものにしなくてもいいと思う。私利私欲を肥やして、人を利用して、騙して、搾り取れるだけ搾り取って、出し抜いてどこまでも病んでいる快楽を求める。そんな夢を見たいのか、見ていたいのか? 夢であり幻であるからこそ、どうせ見るなら愛にあふれた美しいものにしたい。悪夢を見るのではなくて、まるで仏像の仏様のような柔和で穏やかな、そんな夢、幻を見ていたい。
すべては夢であり幻でしかない。だったら意味などない。無価値だ。究極的には何もなくてただ幻があるだけなのだからそうなのかもしれない。でも、今ここに夢、幻を見ている幻のわたしがいる。そのわたしがこの幻に何らかの意味や価値を見出すのであれば、見出そうとするのであれば、この幻には意味や価値があって美しいものだと言えるのではないか。これはどうせ人は死ぬから人生に意味などないと考えるか、それともだからこそ意味があると考えるかということととても似ている。春に咲く桜の花はどうせ散ってしまう。だったら意味がないかと言えば、そんなことはない。その散りゆく桜を「きれいだな」と眺めている人にとってはそれは意味がある。
この現実だと思っている世界が幻だとしたら、もちろん意味や価値も幻だということになる。だったらそれでいいと思う。散っていく桜のように現れては消えていく蜃気楼のような幻でいいと思うのだ。意味や価値が主観的なものであるということは、それらは観念でしかないということだから実在などしない。ただその現実という幻の中に立ち現れてくるいろいろな幻に意味や価値を感じているこれまた幻のわたしがいるというだけのことで。
となると、結論としてはヨガの師匠が言ったように「どうでもいい」の境地へとたどり着く(師匠が以下のような文脈においてこの言葉を発したとは失礼ながら思えないけれど、もしかしたらこのことを直感的に悟っていたのかもしれない)。どうでもいい、つまり、どうあってもいい。すべては幻なのだからどうあってもいい。万物は幻。幻なのです。あるのはインド哲学でブラフマン、あるいは真我と表現されている存在だけ。仏教ならそれさえも存在していなくてあるのは空だけだと考える。
だから究極的にはどうあってもいい。人類が栄えても、または滅んでも。この宇宙が続いても、終わったとしても。
この幻の中で楽しく踊りませんか? ダンス、ダンス、ダンス!!
わたしは危ない人でしょうか? たぶん、真実は狂気と紙一重なんでしょうねえ。ってお前が言うなよ(精神障害者が言うと妙に説得力がある)。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。