持っている人と持っていない人

いろいろエッセイ
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 田舎のネズミのようなわたしが街へ毎朝出掛けるようになって早一年。ヨガをやるために当たり前のように街へと行く。
 そうすると、当然のことながら都会の人たちを見ることが多くなり、そうした駅周辺ですれ違う人たちの雰囲気や表情、要するに佇まいなどから影響を受ける。それは仕方がないこと。いや、まぁそうなるでしょう、という必然でもある。そういうわけだから、ご多分にもれず、ヨガの道場にも都会的な感じな人たちが集まってくるわけでして。実際、習い事としてヨガをやるにはレッスン代などのお金が必要だから、わたしのように無職で障害者で障害年金をもらっていて、不足分を貯金を切り崩しながらやっているなんていう雰囲気の人はいない。みんな、ちゃんと仕事をしている。していない感じの人もしっかりと稼いでいる旦那様がいて特にお金に不自由している感じなどがない。
 だからなのか。どうも馴染めない。この皆さんのライフスタイルのようなものに。生き方や考え方といったものに。どうもわたしだけ道場で浮いている感じで今一つ溶け込めていないと感じてしまう。一応、みんなヨガが好きでこよなく愛しているところは一緒であるものの、どうもわたしの貧乏くさい感じが異質であるように思えてしまって仕方がない。好きなブランドの話とか海外旅行の話とか飛行機の話とかとてもではないけれどついていけない。何だかわたしだけ蚊帳の外のような、そんな寂しさを時折感じる。
 都会的なライフスタイル、暮らし方や生き方というものにふれていて思うことは、洗練されていて、スマートで、合理的で、きれいで、とにかくエレガントで、美しいということ。ただ欠点としてはそれをやるにはお金がかかるということで、何をやるにしてもお金が必要で、すべからく何から何までお金がかかる。街のデパートで洋服などを見て「これいいなぁ。かっこいいなぁ。いい感じだなぁ」と思うと、ちょっとしたシャツが1万7000円もする。この「さりげなくいい感じ」というのがやっぱり高くてこのちょっとワンランク上の感じを出すためには結構お金がかかるものなのだ。となると、わたしにはこのちょっとのためだけに高いお金を払うのはコスパが悪いように思えてしまうのだけれど、都会的でオシャレな人というのはこのちょっとのために大金を払うようだということが最近分かってきた。
 母が言うには「街っていうのはお金を使わせるようになっている場所だから」とのことで、何から何までとにかくお金を払って買いましょう。物もサービスもすべからくお金で手に入れましょう。悪く言えば、お金で解決しましょうという世界。だから、そのためにはたくさんたくさん働かなければならない。街で無料の物なんてほぼないから、ほしい物があるなら働きましょう。そうすれば、あなたが望む生活ができますよ、ということでこれはこれでなかなかシビアだなぁと思う。
 先生も含めた道場の人たちはやっぱり都会的な人たちでなかなかクールなところがあって、寅さんみたいな人情でネチネチくる感じではなくて、ものすごくあるところドライ。どんくさいことはしないし、自分にとってメリットがないと判断するとすぐに切り替えて人間関係においても見切りをつける。だから、ダメな感じの人とは関わることによってメリットがなければ(何かお金がもらえるとか)相手にしないし、自分の時間を使ったりもしない。中には、人によって明らかに対応が違う人もいて、わたしはダメな人と認定されているらしく、ほとんど相手にされていなかったりする。そのダメなわたしにはすごくドライで冷淡な態度を取るのに、自分が関わりたい人には満面の笑顔で明るく「別の人?」というくらいの神対応をする。おそらくその人はわたしが東大に入ったとか、弁護士や医者になったとか、一流企業に入ったとか、何かの道で成功を納めたりすれば「すごいじゃないですか」とか何とか言ってあの満面の笑顔で手のひらを返して近付いてくるだろうと思う。教会にはそんな人はいなかったからわたしは最初、面食らったのだけれど、まぁそれが都会的な人間ということなんだろうなと思うようにしている。逆に言えば、自分がそういう態度を取るということは、見捨てられたり、飽きられたり、見限られたりする不安のようなものに怯えていることではないかな、って考えすぎだろうか。株の損切りのように価値が下がったらそのままにしておかないですぐに売って自分の損失を最小限にする。都会的な人はおそらくこういう感じで生きていて、メリットがなかったりダメな人とはつき合って関わっているだけ時間と労力のムダだからということなのだろう。でも、そういうあり方がここまであからさまで極端だと何だか寂しいなって思ってしまう。「あなたはダメな人だから関わりたくない」と言われているみたいで(ま、そういうことだけどね)。
 成果主義に能力主義、そしてその結果としてのお金。スマートで都会的な人間というものは、絶えず自分が必要ないとか価値がないと言われないようにビクビクしているようにわたしには見える。必要とされなくなれば自然とお金は得られなくなるし、価値がないと見なされればありとあらゆるもの(人、豊かな物や暮らしなど)が遠のいて去っていく。
 でも、わたしは思う。そうなった時にそれでも自分と一緒にいてくれる人が本当に大切な人なのではないか、と。一文無しになっても、重い病や障害を負っても、さらに高い要求をするのなら罪を犯して犯罪者となってしまっても、つまり、自分がどんなにダメになってもということだ。順境の時というのはいいい。うまくいっている時には人が集まってくるし、そんな人たちと楽しくいられて、チヤホヤしてもらえるから。でも、その人のことが本当に分かるのは自分が逆境の時のはずで、その時にこそ、相手の本当の価値が分かる。もはや自分にはお金も美しい容貌も健康も権力も社会的な地位もない。でも、それでも「あなたと一緒にいたい」「あなた最高だからずっと友達だよ」と言ってくれる人。そんな人こそが本当に大切な人だとわたしは思う。
 キリスト教では「世界のすべての人を敵に回したとしてもイエスさまはあなたの味方だ」ということが時折言われる。世界中のすべての人が自分のことを嫌っていて呪いさえしている状況でもイエスさまだけは絶対見捨てないし友なんだ。ということは、教会に行かなくなって聖書すら読もうともしない放蕩息子のようなわたしであっても、イエスさまは変わらず愛してくださっている、ということなのではないか。ヨガをやっているからとか異教に染まっているとか、そんなことで見捨てたりはしないはず。そのことの凄さにようやく気付けたような。でも、教会には行かないですけどね。
 都会的ないわゆるシティーボーイになりつつあるわたしではあるけれど、たぶん教会生活で培った根っこの部分は今後も変わっていくことはないだろうと思う。一つの小さなパンを二人で分け合うという尊いあり方。これだけはこれから持っている人になったとしても忘れないようにしたい。と言いつつ、最近スキンケアを始めまして。って清貧の思想じゃないだろ。人間はところどころに矛盾を含んでいるものです。以上。

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