知ることの不幸

いろいろエッセイ
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 知るということは大切なことで、知らないということは怖いことでさえある。だから、日本には義務教育というものがあり、生活に必要な最低限度の知識は学ぶことになっている。
 けれども、知ることがいいことだからと言って何から何まですべからく知ることが最善だとはわたしには思えない。世の中には知らない方がいいということが少なからずある。それを知ったばかりに急に自分自身が不幸であるかのように思えてしまうことだってあるからだ。
 少し前にこんなことがあった。具体的な場所などは伏せておきたいのだけれど、ある人がいてその人はカレーが好きだった。それもその人の母親が作ってくれるカレーが。そのカレーはきっとすごく美味しいのだろう。
 が、その母親お手製のカレーは市販のルーを使う、よくある一般的なカレーでスパイスカレーではないらしい。わたしはスパイスから作る本格的なカレーの作り方とその味を知っている。実際、自分でも頻繁にこれまでスパイスカレーを作って食べ続けてきた。
 この際、わたしはその人に「そのカレーよりもスパイスから作る本格的なスパイスカレーの方が美味しいですよ。あなたも作ってみたらどうですか?」と言った方がいいのだろうか。そうしてその人の目を見開かせて新しい世界へと誘ってあげるべきなのだろうか。
 でも、それをわたしがやってしまったらその人の平和な世界が壊されてしまう。そう思ってわたしはスパイスカレーのことは何もその人に教えたりしなかった。
 こういうわたしのことを薄情者で冷たいと思う人もいることだろう。けれど、わたしはその人の知らないでいることによって紡ぎ上げられている幸せを守ってあげたかった。別にいいんじゃないのとさえ思った。万人が、すべての人がスパイスから作るカレーの味を知らなくてもいいんじゃないのと思ったのだ。
 これと似たようなよくある話として、学校の同じ学年で一番かわいい女の子がいたとする。あるいは自分が暮らしている村で一番かわいい女の子でもいい。ともかく、自分が知っている限りにおいて一番かわいい女の子。
 そのいわば狭い世界の中では抜群にかわいかった女の子もこの地域一帯、さらに広いエリア、しまいには全国区ともなればかすんでしまうのは仕方がないことだ。
 だとしたら知ることは、いろいろな情報を手にしてしまうことは不幸なのではないかとさえ思えてくる。もしも、世界に自分と一人の女の子しかいなかったら、その女の子がどんな器量であっても絶世の美女に見えることだろう。と言うよりも、他に比べる比較対象がいないのだからこれはもっともなのだと思う。
 また、こんな話も昔、テレビで見た。それは視力を失っていた男性の話で、その人は奇跡的に視力が回復してよく見えるようになったとのこと。で、その目が見えなくなっていた人はその間、自分を献身的に支えてくれていた女性を溺愛していた。その人はその女性の顔を見たことが一度もなくて、目が見えなかったものだから彼女の顔をさわっては「何て美人なんだ。美しい顔だ」と言ってはしきりに頭の中でその女の人の顔を想像してうっとりしていた。もちろん、そう言われる女性はそれが嬉しくて嬉しくてとても幸せな気持ちでいた。相思相愛だった。
 ところが、いざ視力が回復して見えるようになると何とその女性はあまり器量が良くなかったらしくて、その顔にその男性はうんざりとして別れてしまった。
 その男性は幸せだったのだろうか。いや、目が見えるようにならなかった方が良かったのではないかとさえ思える。だから、何から何まで知らない方がいいということもある。知ることによって不幸になることもあるのだ。
 本当はその人が自分のことを騙していて利用しているとか、ひどいことをされているのだけれどもそのことに気付いていないといった場合には真実を知った方がいいとは思う。けれども、ある芸能人が言っていた言葉でいまだにわたしの中でひっかかっているのは「演技や芝居もそれを続けていれば本当のことになる」というとても意味深な言葉。ということはだ。仮面をかぶって嘘をついて騙し続けていてもそれが発覚してあからさまにならないで、その騙されている人が「いい人だ」と思ってその騙している人を信じ続けて死んでいったらそれでいいではないか。そんなことを意味するのだと思う。
 でも、その騙していることが本当に知られないかと言えばそれは分からない。もしかしたらその騙されていた人が自分の死後にスピリチュアルな話になるのだけれど知ってしまうかもしれないからだ。その人はもうその時は死んでいる。だから、その人がそのことを知ってからその相手にできることと言ったら呪って不幸にすることではないかと思う。これはものすごく怖い話ではある。でも、何かありそうな気がする。そう考えると嘘はつかない方がいいし、騙すのはダメだな。いい死に方しないだろうし。と本当そう思う。
 今、世の中は情報化社会でものすごい勢いで情報が自分のところへ飛び込んでくる。電車で一心不乱にスマホを見ている人を見ると、「あぁ、情報を入れているわけなんだな」とすごく大変そうに見える。そして、自分にとって要らないような知ったところでほとんど意味をなさない情報を大量に自分の中へと入れてしまっていて頭の中がそれらでギュウギュウになっている。また、それだけならまだしも、誰々がこんなにいい暮らしとかリッチな生活をしているなどという要らない情報を仕入れてはそれを見てため息をついて「何て自分はしょぼいんだ」「ダメじゃん、わたし」などと落ち込んでいる人もいることだろう(わたしもそういうことよくあるよ)。
 自分がコンビニで買った1個100円ちょっとのおにぎり。SNSで誰々がもっと高そうないいものを食べているのを見るまではすごくおいしく感じていたのにそれを見たら急にしょぼく見えて意気消沈する。でも、コンビニのおにぎりだって、食べ物がお金がなくて買えない貧困で大変な思いをしている人から見ればものすごいご馳走だし、そこまで極端な例を持ち出さなくてもそのおにぎりだって十分おいしい食べ物ではないかと思うのだ(日本のコンビニ自体、世界で見ればクオリティが高い物を売っていると思う)。
 とは言えども、何とかさんが海外へ行ったとか誰々さんは結構高めのブランドの服を着ているとか、わたしたちの日常でもそういったことはちょくちょくあって、知りたくなくても情報として入ってくる。でも、いいじゃないか。そんなに高いものでなくてもそれなりに満足できているし、ハイクラスなものでなければ心が満たされないというわけでもないのだから。貧乏人には貧乏人の悩みがあるように金持ちには金持ちの悩みがあるのだから、どんな状態や境遇になっても悩みは尽きないのだから。ハイクラスになればなるほど、もっともっという欲望はメラメラ燃えてくるだろうし、どこまで行っても満足できなければ、それが世間一般から見てどんなに恵まれていたとしても欲求不満から解放されることはない。また、今の高い生活レベルをキープするためにはたくさんの時間を働くことに費やさなければならないということも忘れてはならない。もちろん、たくさんお金を稼げる仕事であればあるほど高度で難しいものになるのは必死で、気が抜けなくて重い重い責任もズシリとかかってくる(失敗してコケると人が大変なことになったり、最悪の場合には死んだり、多額の損害が発生する)。
 そういう風にとらえると、今のわたしはとても身軽でまさに無責任男で軽快そのもの。仕事をしようと探しているところだけれど、何も重い責任がのしかかるようなものではなくて、パートとかアルバイトみたいなもの(一般企業の障害者雇用とかA型事業所などを検討中)。お気楽な身の上と言えばお気楽な身の上だ。それにこのブログだって人気ブログではないから、おそらく何を書いても炎上なんかしないだろうし(それはちょっと寂しいことだけどね)。
 と、話をまた元に戻すと、現代人は情報を取り込みすぎて疲れ切っていて混乱さえしている。そうなればそうなるだけ、まるで仙人のような達観した人が面白くなると思う。「わしは新聞もテレビもラジオもネットも興味ないんじゃよ」。そんなことを言いながら自由気ままに悠々とあくせくせずに生きる仙人のような生き方が逆にこれからのトレンドになりそうな気がする。まぁ、トレンドになろうがならなかろうがその仙人様のようなお人にとってはどうでもいいことでそんなことお構いなしにマイペースで生きているだろうけれど。
 つまり、知るばっかりがいいのではなくて知らない、知ろうとしないという選択もあるということだ。情報に振り回されないで、自分が持っている物や自分の姿をありのままに虚心坦懐に眺めたら「悪くないかも」と思えるような気がしてならない。自分の持っている物もまぁ良くて満更でもない物で、このしょぼくて冴えないダメなわたしだと思っていた自分もよく見るとメチャクチャ駄目で最低なわけでもなくて結構イケてるんじゃないか。自分が持っていない物を見てそれをひたすら手に入れようとしたり、ダメな自分をひたすら強化してパワーアップすることばかり考えなくてもそれなりにいいんじゃないか。
 さて、と。ここに白状します。こうして偉そうなことを書いてきましたが、わたしはネットの情報に踊らされて混乱さえして、自分よりもできる人や恵まれている人などを見てクサクサしておりました。でも、それは必要のないことだった。大切なのは自分がどうかということ。人じゃない。人と比べてどうではない。自分が心地いいのか。自分が快適なのか。自分が幸せなのか。ただそれだけ。人の意見は参考意見でしかないのだと割り切れたらと思う。
 答えは自分の中にしかない。他人の中ではなくてね。

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