街にある道場でヨガをしてきた帰り、わたしは何だかむなしくて悲しかった。ヨガをやることが嫌になってきたとかそういうことではなくて、この現実だと思っている日々の営みそのものに現実感覚が感じられなくなっていたからだ。この儚さのような、さびしい侘しい感じは一体何なのだろう、と思ってしまうくらいに急にすべてがセピア色になったような、いや、自分がこうして毎日を送っていること自体がまるで砂のお城を懸命に作っていることでしかないような、そんな感覚に襲われていた。
この現実は幻なのか? 蜃気楼のようなものなのか? 本当は何もなくて存在していないのではないか? そんな青臭いことを考えてしまうのは仕事にまだ就いていないからかもしれない。そんな未熟な青年が考えるようなろくでもないことを思ってしまうのは暇だからだ。そんなことを誰かが言ってきそうな、いや言う人いるんじゃないか。
自分がやっていることが砂でお城を作っているようなことでしかないと思うととたんにやる気がなくなってくる。というか、お城を作るとか何をするとか、そういうことを言う以前に人、つまりはわたし自身が砂のお城のようなものなのではないかとも言える。
わたしの肉体は、命は有限なものだ。わたしは今40歳くらいだから長くもってあと40年か50年そこそこで死んで消えてしまう。わたしは永遠には生きることができない、聖書でたとえられる草のような存在でしかない。わたしを植物に置き換えて考えるなら花が散り始めたか散り終わった頃ではないかと思う。これから徐々に枯れていくのだろう。
わたしは今まで生きてきた。それなりに自分自身を高めようと思って生きてきた。自分自身をブラッシュアップして磨きをかけてきた。だからこそ、それが意味がない営みだとは思いたくないし認めたくない。砂のお城を作っているようだというのは、結局自分がやっていること、やってきたことが無意味で徒労だったのではないかという恐れのようなものではないかと思う。
頑張る。努力する。一生懸命やる。何のために? それが徒労で意味がないのであれば人はやる気にはなれないし、無気力になる。
たとえばこんな人がいたとしよう。その人は毎日懸命に勉強をして自分が知ったことを書いては本にしていた。職業は作家さん。その本はゆうに100冊を越えていて彼はそのことに満足感と誇らしささえ感じていた。そこにある青年がやってきてこんなことを言う。「先生、すべては幻ですよ」と。それを聞いてその作家は何を思うか? 面白くないのはたしかだろう。それは作家に限らずこの世で成功していたり、地位や権力があったり、お金をたくさん持っていたり、人々から賞賛されて尊敬されていればなおさらのことで、幻だと認めたとたんに自分がやってきたことややっていることが否定されて意味や価値を失ってしまうのだから「すべては幻だ」というのは最も強烈な一撃であることは間違いない。
東洋哲学というのはえてして劇薬でなかなか危ないものだと思う。この現実が幻なのか否か? それは誰にも分からない。自分がたしかだと思っていたものがすべてガラガラガラ~と足下から崩れ去っていく。堅固だと思って築き上げてきた自分というお城が砂のお城でしかないと気付いた時に人はそれでも平静を保っていられるのか。
砂のお城を作ることや蜃気楼や幻でしかないこの世界で一生懸命に生きることに意味があるのかどうか。結局わたしは意味というものにつまずくようで、20代の頃から結局何も前に進んでいないのかもしれない。もしかしたらだけれども、たしかパトナムという哲学者が言ったように本当のわたしは培養液の中の脳でしかなくて、その脳がどこかとある実験室で何者かによって(未来の科学者かもしれない)実験ということで幻でしかない世界を見せられて体験させられているだけでしかない、という背筋も凍る話が真実なのかもしれない。だから、そういう意味で幻なんですよというなかなか強烈なオチだ。いやはやキツい話ではある。
自分のやっていることの意味や価値を考えるとして、それが意味や価値があるとしたらそれが本当にその通りなのだろうか、というのはなかなか難しい。つまり、意味があることには意味があるのか、価値があることには価値があるのかということでそれを誰が保証してくれるのかという話になってくる。となると神様が登場してくる。意味や価値があるかどうかということについて正しく判定できるいわば判定者が必要になってくるからだ。神様は絶対に正しいから神様の言うことなら、神様がそれは意味があって価値があると言うことなら100%、1ミリも間違いなどというものはない、はず。
キリスト教の神様はこの世界、万物はわたしが造ったのだから絶対にある。空や無や幻などでは断じてない。堅固なものであって確実に存在している。だから安心しなさいとまずは足場を、もっとも基本的な足下を固めてくれる。そして、神様はわたしが言うことは絶対正しいのだからその言う通りに生きればいい。そうすれば間違うことはないからただわたしの言うことに従えばいいと言う。
たしかにこれなら楽だ。この世界は本当にあるのかとか幻なのではないかという疑いはそもそも起こらないし、自分でどう生きればいいのかと考える必要もほとんどなくなり、ただ言われるがままにしていればいい。神様が羊飼いだとしたらその羊として囲いの中で安住していればいいからだ。ほとんど危険なことはないし、安全そのものだ。そうか、今のわたしがデンジャラスな感じなのはその神様の囲いを飛び出してしまったからだったんだ。ということはその囲いへと戻ればすべて問題は解決するはず、と思いたいところではある。しかしながら、その囲いの中が本当に安全なのかどうかというのは分からない。囲いの中にいる人たちは「ここが安全だからあなたも来なよ」と言うだろう。「そんな神様の囲いの外でサバイバルしていないでこっちに来なよ」と言うはず。しかし、そもそもまずその囲い自体が存在しているのかどうかさえ今のわたしには怪しく見えてしまう。もしかしたら彼らはそこに集まって集団催眠にふけっているだけなのかもしれないからだ。いや、その前にすべてが幻ではないかと疑っているわけだから宗教がアヘンであるかどうかという以前の段階でつまずいてしまっている。
とここまでいろいろとまたしてもウダウダと考えてきた。ではあるものの、今気付いたことがある。それは自分で物事をコントロールしようとしている、という至極当たり前のことで全部自分の管轄下に置こうとしているということだ。わたしはどうやら自分の人生というものを思い通りにしようとしていたらしい。自分でデザインして、自分で切り開いて、全部自分でコントロールして無駄なことや意味や価値のないことなどをやらずに、結果的に自分の人生を充実した意義あるものとしたい。自分の人生に徹底的に意味や価値を求めてしまっていてそれがかなわなければいられない。そんな感じだったのだと思う。
人生を思い通りにする。コントロールして制御する。けれども、自分の人生を完全に思い通りにコントロールすることなんてできるわけがない。もちろんある程度はできるだろう。コントロールして自分自身を律することは可能だからだ。しかし、考えてみれば、自分がこうして生を受けて今ここにいるのはコントロールしてできたことではない。完全に受け身だ。そう考えるとむしろ自分ではコントロールできないことの方が多いのではないだろうか。自分の体調や精神状態にしても完全にコントロールするのは無理でどうしてもムラが生じる。ましてやこの世界のあり方を自分でコントロールすることなどできるわけがない。この世界、万物が幻であるのかないのか、どちらなのかは分からないものの、このことはわたしにコントロール可能なことなのだろうか? 無理だろう。幻なら幻なのだろうし、実在していてちゃんとあるのならある。それだけでしかなくて、あるのならあるし、ないのならない。それだけだ。それをわたしがどうこうしようと思っても、その世界の中にいるだけでしかないわたしはそれをどうすることもできなくて、その中にいて従うことしかできない。
自分がコントロールできないことをコントロールしようとする時、人は悩むのだと思う。多くの人が悩む人間関係も自分のことはある程度コントロールできても、他者を思い通りにコントロールすることはできないのだから当たり前と言ってしまえば当たり前だ。お天気もそうで「明日は絶対晴れてくれなければ困る」と思っていても天気をコントロールすることはできないのだから晴れなら晴れるだろうし、雨なら雨になるだけだ。
今のわたしの態度において足りないところがあるとすれば、それはなりゆきに任せるとか、なるようになるというあり方ではないかと思う。何から何まで自分でコントロールして制御しようとするのではなくて、ただあるがままというか、なるようになるさ、なっていくさというあり方。大きな流れ、宇宙の法則のようなものに身を委ねて戦おうとしないあり方。そのようなあり方で行くのだとしたらきっとこうなるだろう。この世界が幻なら幻でいい。あるのならあるでいい。どちらでもいい。すべてはあるようにある。そして、幻であれ実在しているのであれ、なるようになっていくし、どうあがいてジタバタしたところでなるようにしかなっていかない。
目標を達成して自己実現を果たすには自分を律することも必要ではある。けれど、そればっかりで自分が全能であるかのように思ってしまって何から何まですべてのことをコントロールしようとか、思い通りにならなければ気が済まないとなってしまうと苦しくなってくる。なぜならコントロールできることよりもできないことの方が圧倒的に多いからだ。
自分でコントロールできることはそれなりにできる範囲で律してコントロールする。一方、自分でコントロールできないことはどんなにあがいても無理なのだから潔く手放して大きな流れに身を委ねる。その見極めが大事なのではないかと思った。
わたしのやっていることが徒労でしかなくて砂のお城を作っているだけでしかないのならそれでいい。人生そのものが砂のお城ならそれでいい。意味や価値がないのだとしたらそれでいい。それでもわたしは砂のお城を作っていく。どこまでもどこまでも。いつか崩れ去ってしまうことは分かっていてもそれでも作っていく。何のため? もしかしたらこのお城ができている砂も存在しないかもしれないのに? 逆に桜の花のように永遠ではないから美しくて意味や価値があるのかもしれない。桜が散るように人も死ぬ。だから、意味がないかと言えばそうではない。だったらすべては有限なのだから意味がないことになってしまう。また、この世界が幻でしかないとしてもたしかなのはそれが幻であれ何であれ、わたしの目の前に立ち現れているということだ。それを幻でしかないわたしが桜を見て思うように自分の人生を美しいとか意味や価値があると思う。この思い、それすら幻なのかもしれないものの、この瞬間はたしかにある(厳密に言えばないのかもしれない)。それならそれだけでもいいではないか。
前からわたしが思っていることとして、意味や価値は主観的なものという考えがある。そして、その意味や価値を主観的にそう判断している自分自身が幻なのか実在しているのかはともかく、そこで判断している自分の思いはある。その思いすら幻で蜃気楼でしかなかったとしてもたしかにそこに幻があったということは事実ではないかと思う。幻を見ていた幻の自分がいたということは事実だ(つまりすべてが幻だったわけで)。だったらそれでいいではないか。自分が神様か何かのように絶対者にならなくていいし、その必要もない。となれば、この世界が幻かどうかということについて「絶対そうだ」「絶対そうではない」と神様でもない以上、断言して断定することなどできないのだから、「わたしにはこの世界があるように感じられるけどな」でいいのだ。断定したり断言できなくてもいいのだ。
この世界が幻なのか、実在するのか。わたしの人生は砂のお城のようなものなのか、そうではないのか。どんなにそのことをわたしが考えたり不安に思っても仕方がない。わたしには分かるわけがないのだから。それを知っているのは神様だけ。あるいは神様がいないのなら絶対者のような存在だけ(もしくは聖者とか神懸かった人)。
だからわたしは生きていく。いつ崩れて壊れるのか分からない、いや存在しているのかどうかさえも分からない砂のお城を一生懸命にコツコツ、コツコツ作っていく。そして、そのお城はいつか崩されて壊れてなくなる。人々がしばらくの間、そのお城のことを語るかもしれない。あるいは誰も何も語ってくれないかもしれない。でも、それならそれでいい。そのお城を作っている時、わたしは楽しくて充実して幸せだったのだから。それさえ感じることができていたら、意味や価値があろうがなかろうが人々の記憶に残ろうがどうであろうが些細なことだ。
砂のお城、只今建設中。とまぁ、いろいろ書きました。読了感謝。長かったですよね? ありがとさんです!!
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。