変わったお客様

いろいろエッセイ
この記事は約4分で読めます。

 我が家には基本的にお客が来ることはほどんどなくて、来るとしても宅配便の人か、あと本当にたまに町内会の連絡に近所の人が来るくらい。だから、いつも静かな感じで閑散としている。
 そんな我が家に昨日、お客様が。
 玄関のチャイムが鳴ったので多分、荷物か何かだと思って玄関の扉を開けた。するとそこには細めの見知らぬおばあさんが立っていて、「トイレを貸してもらえませんか」と何やら結構切迫した感じで言ってくる。普段、こういう用件の人が我が家に来たことは今までなかったから、一瞬わたしは対応に困った。わたし自身、驚いていたというのが正直なところだった。でも、この人はトイレを本当に我慢して我慢しているのではないか、と思ったから、家の中に通して「こちらです」とトイレへと案内した。
 そのおばあさんがトイレに入ったので、台所へと戻ると(チャイムが鳴る前にはわたしは台所にいたので)、母が不安そうな顔をしている。見知らぬ人にトイレを貸して大丈夫なの、というのはもっともで何ら不思議なことではない。
 が、不審と言えば不審だ。我が家の近くには公園だってあって、そこにはトイレがちゃんとあるし、スーパーとかお店だって周辺にはあるのだから、あえて普通の家でトイレを借りる必然性のようなものがそもそもない。わたしは、もしかしたらこのおばあさんは急にお腹が痛くなってとてもではないけれど、公園とかお店にあるトイレまで我慢できなかったのではないか、とも考えたりしていた。
 おばあさんがトイレから出てきた。お腹の調子が悪いのではないかとも思っていたからその人に「大丈夫ですか?」とわたしが聞くと「道に迷ったからタクシーを呼んでください」と言う。でも、その様子というか身なりだったり雰囲気がちょっと異様な感じがしていた。母は「消防署に連絡した方がいいんじゃないの?」とわたしに訊く。
 このおばあさんは今増えている認知症の人で自分がどこにいるのか分からなくなってしまったのではないか。簡単に言うなら、迷子になっているのではないか。そう疑ったわたしと母は、そのおばあさんにいろいろと詳しい話を聞いた。
 すると案の定、そんな感じらしい。病院の皮膚科へ行こうと思ってタクシーに乗って降りたのはいいけれど迷ってしまった、ということをその人は言う。けれど、その皮膚科は駅のほうでこの我が家からは歩いて2、30分もかかるところにある。それなら、どうしてタクシーに乗って「○○皮膚科までお願いします」と行き先を言ったはずなのにこんな所にいるのか。タクシーだったら目的地に着いているはずで迷うなんてことは普通ない。そう考えるとこのおばあさんが本当にタクシーに乗ったのかどうか、それすらも何だか怪しくなってくる。そして、この人は家を出てからもう2時間近くも経っているようで、きっと家族は心配して捜していることだろう。
 このおばあさんはおそらく認知症のようだ。でも、自分の名前と住所と電話番号はしっかり分かっていた。
 ということで家族へ電話をして迎えに来てもらおうということになり、母に電話してもらって家族へと連絡した。すると、こうしていなくなってしまうのが今回が初めてではないこともその人の旦那さんの話から分かり、わたしが近くのスーパーまで送って(近いから徒歩で一緒にそこまで行く)、旦那さんに車で迎えに来てもらうことになった。
 しかし、この近くのスーパーまで送るというのが気が抜けない。なぜなら、何かあってはいけないからだ。特にお年寄りの場合には転倒しないことを第一にしなければならない。我が家に迷い込んできたこのおばあさんは細身で骨が丈夫そうな感じではなかったから、転んでしまうと最悪、大腿骨とかを骨折しかねない。
 と思っている矢先、家の前にある階段(全部で4、5段くらい)でそのおばあさんが軽く転んでしまった。幸い、激しい転び方はしていないようでこれからスーパーまでも歩いて行けそうだ。気が抜けないと思ったのはこの出来事があってからで、わたしはそのおばあさんの付き添いとして緊張しながらスーパーまで向かったのだった。
 やっとスーパーに着いた。「○○(スーパーの名前)に着きましたよ」と言っても1分後くらいには今自分がどこにいるのか分からなくなる感じで不穏な表情をする。わたしは同じことを彼女にまた伝える。すると安心するようだ。
 スーパーの正面にあるベンチにおばあさんを座らせて彼女と少しばかり話をしていた。何も言わないで家を出てきてしまった、ということを言う彼女にわたしが「家を出る時にはちゃんと家の人に言った方がいいですよ。心配しますから」と穏やかに伝えると「そうですね」と彼女も穏やかに返してくれた。
 しばらく待っていると、旦那さんが迎えに来てくれた。旦那さんは「どうしてこんな所にまで車の運転もできないのに来ちゃったんですかねぇ」と不思議そうだった。それもそのはずで、おばあさんが住んでいるのは隣の市。まさか2時間ちかくかけて我が家まで歩いてきてしまったのではないか。そんなことも考えながらその旦那さんと軽く言葉をかわした。旦那さんは「お世話になりました。ありがとうございました」と2回くらいは言ってくれたかと思う。わたしは自分の名も特に名乗らず二人に「お気をつけて」とだけ言ってその場を去った。「きっと大変だろうなぁ」と思いつつ、いいことをしたなぁとも思いながらね。変わったお客様だったな、ホント。

PAGE TOP