おそらくOK

いろいろエッセイ
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 何か最近疲れている。別に仕事をしているとか、そういうわけではない。でも、疲れている。気が付くとネットを長い時間やってしまっているから、そのせいなのだろうか。ともかく疲れている。
 どこまでやっても、どこまでやっても終わりはない。ただただわたしにはわたしのやりたいことや課題が山のように目の前に積まれていて、それを前にしてふとため息が出てしまう。
 でも、忙しくしたのは誰なのか? これをやろう、あれをやろうと決めたのは誰なのか? それは紛れもなくわたしだ。他の誰のせいでもない。こんなものはうっちゃって、好きなだけ寝ているんだみたいな生活を送ることだってできる。何も毎朝3時に起きて支度をして始発の電車に乗ってヨガをやりに街へ出掛けなくたっていい。そう、やるもやらないのも自由なのだ。
 何でこうわたしの人生はハードモードなのだろう。なんて無職の男が言っていいものなのかどうなのか。と言いつつもわたし以上にハードな人生を送っている人はたくさんいる。何もわたしだけが大変という話ではなくて、みんな大変と言ってしまえば大変だと言えなくもない。
 何で生きている? 何のために生きている。答えを求めつつも得られない日々。昔、キリスト教をやっていた頃にはその答えはあった。でも、その答えであったイエスさまや神様はどこか遠くへ行ってしまって、ただぼんやりと昔の色あせた写真のようになってしまっている。
 答えはない。でも生きないといけない。それを探すために生きているのだと大学生の時のカウンセラーは言っていた。彼女はそれからその答えを得ることができたのか? たしか彼女はカトリックとか言ってたな。じゃあ、何で探してるの? もう見つかってるはずでしょう? 今気付いた些細な矛盾点。
 最近あまりにもこのブログのアクセス数が少なくなってきたものだから、意を決してアクセス数が少ない原因とやらを検索して調べてみたんだ。すると、もっともなことが分かった。何でも「ブログの記事の品質が低い」んだとさ。そ、それを言っちゃあダメでしょう。それ、禁句。要するに、わたしの書いている文章は自分のことをただ書いているだけだからダメなんだって。でもね、品質の基準ってすごく曖昧だと思う。役に立つかどうかと言えば、このブログはほとんど役に立たないし実用的ではないけれど、誰かにとってはものすごく役に立ってるかもしれないでしょう? それをAI(で合ってる?)、もしくはロボットに判断できるわけなの? わたしはGoogle様に楯突くつもりはございませんが、この基準はすごく画一的なものだと思うけどな。役に立つ。そして、使えるものだけを残していった先に待っているのは本当につまらない多様性のない世界だよ。役に立たなくて使えない、そんなほとんど誰からも顧みられないものだって誰かにとっては必要かもしれないよ? ま、多くの人にとってはただのゴミなんだろうけどね。
 それと今日、何かいや~な気分になったのはやっぱりわたしは無職で精神障害があるから女の子には相手にされないんだな、という厳しすぎる現実だった。てんで相手にされなくてね。それもそうか。わたしはテンションが低くて暗いし、誰かを楽しませることなんてできないし、ましてや相手を癒せるだけの人間的な器もない。いつも自分が中心にあって、自分のことを喋ってしまうし、思いやりだってないし、切るところは容赦なく切り捨てる。で、さきの無職と精神障害のワードがさらに付け加わる。メリットが、メリットがありませんな。魅力がゼロではないけれど、わたしと関わるよりも健康で社交的で明るくてちゃんと仕事をしているような、そんな男といた方が絶対楽しいだろうし。
 でも、でもわたしが何かできなくても、何も持っていなくても、お金だってなくても「一緒にいたい」と言ってくれる人がどこかにいるんじゃないかなぁ、なんて甘い幻想を抱いている。わたしを仮にりんごにたとえるなら、固かったり、傷がついていたり、あげくの果てには腐っていても、食べてあまりおいしくなくても、「いいね」って言ってくれる人がいるのではないかなぁ、なんてね。固いなら固い者同士、傷ありなら傷あり者同士、腐っていてもおいしくなくても、そんな二人だからこそ仲良くやっていける。そんな訳ありカップルなり、訳あり夫婦を目指してもいいのではないか。美男美女で頭もよく何から何まで理想を現実にしたような、そんな二人を目指さなくても、ダメならダメな者同士でやっていこうよ、みたいなそんなあり方もあると思うけどなぁ。その方が無理がないと言えば無理がないし、どちらかに傷がついたり、腐ったりしても許容できると思う。というか、歳を重ねていけば若い頃の美しい容色はもちろん衰えていくし、体だって弱っていく。いつまでもスーパー爺さん、スーパー婆さんという人もいるかもしれないけれど、それは多分例外的な存在。みんな老いて死に向かっていくわけだから、言い方は良くないけれど劣化していくことは避けられない。
 と、パートナーがほしいみたいなことを書いてはきた。でも、それが本当にほしいのかというのが自分でもよく分からなかったりする。パートナーはいなくていいから、ただ性欲が満たせていればいいという生き方だってもちろんある。わたしは本当にパートナーがほしいのか? 二人で残りの人生を歩いていきたいのか? 一人ではなくて。
 要するに自分の軸がぶれている。ビシっと決まっていない。だから、あっちへふらふら、こっちへふらふらしているんだ。しっかりせい。自分の軸を持て!! どう生きてどう死んでいきたいんだ? 何をしている時が幸せで何をやることに人生の多くの時間を費やしたいんだ? 何に重きを置くんだ? と自分自身にちょっと問いかけると、まだぼんやりとはしていながらもうっすらとは「こうしたいな」というのはある。だったらそれを今すぐはっきりとさせる。なんて言ってしまうとちょっと重圧。ぼちぼちやっていきながら、考えていけたらなぁ。なんて、行き当たりばったりの風任せ。これで大丈夫なのか? 多分大丈夫。人間死ぬ時は死にますし、人生を完璧に完成させる必要なんてそもそもないですから。身もふたもない暴言吐いてますけど、多分これでいいでしょう。おそらくOK。

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