量よりも質だ。分かってはいる。分かってはいるんだ。でも、どうしても数を求めてしまう。
平凡なわたしはやっぱり数というものの持つ力にひれ伏しているのかもしれない。数があるもの、それもたくさんあるものには力がある。SNSのフォロワーの数にいいねの数。どれもたくさん集まるとそれは力となって説得力を持つ。
なんて最もらしいことを言い始めたかのようだけれど、それは本当のことなのだろうか? 数があるもの、みんなから評価されているものがとにかく素晴らしくて、無名の誰からも評価されていない人の作り出すものには価値がない。それは本当か?
本当なのかもしれないけれど、そうでもないのかもしれない。つまり、どっち?
たしかにみんなから評価されているものというのは素晴らしいものであることが多い。それは認める。必ず何らかのキラリと光るところがあって、それゆえに評価されている。でなかったら、そこまで人気を博してはいないだろう。だから、みんなが好むものや人気があるものを手に取れば当たり外れはない。って本当か?
じゃあ、流行はどうなのよ? 流行は繰り返すものの、2005年に流行ったファッションとか髪型を今やっている人がいるかと言えば、そんな人はほぼ皆無でもはや人気がどうこうではなくて忘れ去られている。それからお笑い芸人のブレイクした一発芸、小島よしおの「はい、おっぱっぴ~」なんて今真似してやってる人はいない。
と見ていくと、人気があるものが必ずしも普遍的な価値があるというわけではなさそうだ。だとしたら、人気があることは価値がないのか? いや、価値はある。それは経済的な価値。お金になるという価値。それを手に入れるためだったら多くの人が財布のひもをゆるませる、そんな価値がそれにはある。みんなそれをほしがっていて求めている。だから、バカ売れで注文が殺到する。でも、それがお金になりバカ売れするからと言ってそれが価値があるということになるのか?
要するに「みんなのいい」「みんなの好き」「みんなのほしい」を提供できた人が勝者となり大金を手にするのだ。反対に誰からもいいとか好きとかほしいなどと思ってもらえなければ、途端に生活に窮することになる。
わたしのブログがさっぱりな理由。人気が出ない理由。それはみんなの求めるようなものを提供することができていないから。話はしごく単純で明快でさえあることで、もしもわたしがみんなが求めるところをじゃんじゃん与えることができれば、それがどんなに高かろうが喜んでお金を出してくれるはず。反対に、今のわたしのブログのようにただであっても読みたくない、ほしいと思ってもらえないのであれば、人は群がってこないし、わたしが彼らにお金でも配って「読んでください」みたいなことでもしない限り、読んでくれる人というのは出てこないことだろう。
仮にわたしにみんなが求めるものがあるのだとしたら、わたしが何かのスペシャリストであることではないかと思う。何かに秀でていて優れていて、そんなあなたの文章だったらぜひとも読みたい、読ませていただきたいというようなそんな箔のような、実績だったり学歴だったり資格だったりをみんなは求めるはずだと思うんだ。現にわたしが「高卒の放送大学中退の40歳の男性です」と言うのと、「ハーバード大学卒で医学博士でアメリカで精神科医をやっています」というのとでは断然、後の方が圧倒的に興味をそそる。そうなれば、「そんなにすごい人の言うことだったら聞いてみたい。書いた文章があれば読んでみたい」となっていく。一方のわたしの今の状態では、とてもではないけれど「読みたいとは思わないな」で終わってしまう。どうせ高卒なんだから大したこと書いてないでしょ、みたいに思われておしまいだ。そこに何か付加価値のような、たとえば壮絶な少年時代を過ごしたとか、何か普通の人がやらないような変わった趣味をやってきたとか、何かがなければ、わたしのやることなすことに興味を持ってもらえない。たとえわたしがどんなに玉のような素晴らしい文章を密かに書いていたとしても、そんな高卒ごときにろくな文章を書けるわけがないという偏見からまず最初に読んでもらうことができず終了、となるのが関の山だ。
と分析をしたところで、また最初の問いに戻ってみると、そのわたしの求めている「いい」が結局どんな「いい」なのか、というところへとたどり着くのではないかという気がしてきた。わたしにとってそれが良くて、それで自己完結しているのであれば何もみんなに「いい」とあえて認めてもらう必要はない。自分で壷でも作って「何て素晴らしい壷なんだ。俺は自分でも惚れ惚れしている。素晴らしすぎて言葉もない。これをみんなに分かってもらえなかったとしても俺がこれを最高だと思うのだからそれで十分だ」となる。それをえてして批判したい人は「独りよがり」「自己満足で終わってしまっている」などと言う。でも、その壷を作った俺という人は満足していて、そんなことを誰が言おうがお構いなしだ。誰が何と言おうとその壷が素晴らしいことは揺らがないし、その自信が壊されることなどもないからだ。
このことで思い出したのが、マーケティングを専門としている人がテレビで以前言っていたことなのだけれど、車が好きな人たちが自分たちの好きな車を追求して車好きのための車を作ってしまうとそれは売れないそうだ。意外かもしれないけれど、車好きな人よりもそこまで行っていない人の方が圧倒的多数なのだからそうした人たちに向けて作るべきだ、みたいなことをその人は言っていた。これは要するに、車愛好家の「いい」ではなくてそれ以外の人たちの多くの人たちの「いい」に合致するようなものを作って売ろうということであって、数の少ない人たちの「いい」よりも多くの人たちの「いい」を優先することを意味する。もちろん、こういう選択をして大衆ウケするようなものを作るのだとしたら、その車マニアの開発者たちは不満だろう。自分たちの好きなものを作ることができないのだから。でも、総合的に見て会社が作った車が売れなければ、その一部のマニア向けの車を作るだけの余力もなくなってしまう。だから、しぶしぶ売れるものを作る。マニアックないいものではなくて、みんなにとってのいいものを、と。
だから、わたしに問われてくるのは、誰に向けて書いているのかということだ。自分の書いた文章が一部の自分と波長が合う少数の人たちにだけ届けばいいのだと思うのなら、商業レベルで成功させることは意味がないし(お金はまぁ、稼げるなら稼げた方がいいとは思うかもしれないけれど)、あえて人気者になる必要などもなく一部の人(2、3人でもいい可能性だってある)から賞賛されて分かってもらえていればいい。さらには、それさえも望まなくて自分だけが分かっていればいいのならそれで自己完結することになり、誰からの賞賛を求めるわけでもなく文章だけを残して(残すこともないかもしれない)生涯を終えていく。つまり、自分の文章を読んでもらいたい人がどれくらいの規模で、その規模の中でどの程度の人たちから分かってもらうことを望むのか、ということなのだ。その円の中心には自分がいて、さらにそのすぐ外側には家族がいて友人がいて、そのまた外側には同じ職場の人がいて、さらにその外側に顔さえも知らない多くの人たちがいる。自分が知っていて相手も自分のことを詳しく知っている。そんなリアルの人間関係が数十人から数百人だとするなら、その外側には広げようと思えばどこまでも尽きないほどのたくさんの人たちがいる。
そう考えれば、その円を広げていくためには、それもどこまでもどこまでも広げて多くの人たちを巻き込んでいくためには、その多くの人たちから感心されなければならないし、彼らの求めるところを敏感に察して空気というか世の中の流れをも読んでいかなければならない。もちろん、そうなれば期待を裏切ったりキャラを壊す不祥事などは命取りとなるから、好き放題にやることなどはできない。となれば、いつもみんなの顔色を伺って絶えず自分の人気という一つの指標に注視することになる。いわば人気稼業の水商売になるのは当然のこと。
多くの人に愛されて、多くの人に惜しまれながら生涯を終えたい。尊敬されていればなおのこと良し。でも、それはメンタリティーが弱いということではないか、というようにも言える。一番強い人というのは、自分だけの賞賛さえあればいい。自分が自分のことを分かっているから誰からの賞賛をも求めないという人はすごく強い。フォロワーは自分一人だけでいい。あとはいてもいなくても構わない。どんだけメンタル強いんだと思わないだろうか。それこそ自立している人ではないかと思う。自分の足でしっかりと立っていることは何も経済的だとか身体的だとか、そういうことだけではなくて、精神的な意味での自立ももちろんある。その意味ではこの人は精神的に本当の意味で自立している。誰も分かってくれなくても構わない。自分はちゃんとやれているのだから、そのことは揺らがない。だから、他人の賛同はあってもなくてもどちらでもいい。
となると、わたしの精神の弱さだったり脆さだったりがもう露呈してますね、本当。わたしは自分だけの承認では立っていられなくて、他の人、それも家族以外の人たちからのものをも求めてしまっていたんだ。自分が立っているためにどれだけの人たちからの精神的な支えが必要なのか、ということはそれが増えれば増えるほど多くの人たちからの強い支えが必要だということになる。それって強いと言えるのだろうか。弱くない?
でも、その自分からの承認さえあればいいという人が一番強いように見えたけれども、さらに上を行く人がいて、その人は自分からの承認さえも必要とはしない。本当に誰からの、自分からの承認でさえも必要としない人で、ただあるがままに生きている。だから、承認とか賞賛とか賛同とか、そんなものは必要とせずおそらく淡々と生きている。
また、他の人からの賞賛などは薬のようなものだとも言えるかもしれない。それが必要であればあるほど、その人には自信がなくて内面が空虚でぽかんと大きな穴が開いて病んでいる。その穴がもうなくなって、一切薬を必要としなくなった人。その人こそ悟りを開いて解脱した人ではないかとわたしは思うのだ。
わたしは弱い。どこまでも弱い。気が付くとすぐに他の人から同意を求めて、ほめてもらうことを求めて、誰かからの評価がほしくなってしまう。自分だけで立っていることは今の段階ではまだとてもではないけれど、できていない。
じゃあ、何のためにブログをやっているんだ? 何のために自分が書いた文章を公開していて不特定多数の人たちが読めるようにしているんだ、という謗りをわたしは免れることができない。何でだろうね? やっぱりほめてもらいたいからなんだろうね。って正直過ぎる?
言うまでもなく、その気持ちがなくなっていって、誰からも賞賛や賛同やお褒めの言葉を求めなくなった時、わたしはブログを卒業して他者からの承認というものからも卒業するのだろう。その状態にわたしは到達できるのか? まぁ、無理だろう。でも、一歩ずつやっていきたいな。ダメで元々で。
そんなことを考えつつ、今浮かんだこと。「そんなわたしを誰かほめて」。だめだこりゃ。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。