吃音(きつおん)って不幸なのかなぁ

キリスト教エッセイ吃音エッセイ
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 先日、教会で自由にお話をする集会があったんだ。で、その時、思ったことを思い出しながら、まぁ、ざっくりと書いていきたいと思うのです。
 その時思ったことというのが吃音って不幸なのかなぁ、っていうことだった。自分自身、この吃音とは3歳の頃から共に生きてきている感じなので、人生の相棒(?)てな感じなんだけれど、この吃音を教会の人たちはどうやらネガティブにとらえているらしいんだ。
 わたしが20代の吃音が重かった頃の話をすると、その会に参加していた牧師も含めたクリスチャンの方々は急にシュンとして苦しそうな顔をするのだ。「そこぉ、落ち込むところじゃない。大変だったのね~ってさわやかに言うところだろぉ」などと半ば冗談っぽくわたしは心の中でツッコミを入れていたのだけれど、とてもそんな感じの空気ではなくて「かわいそう、何てかわいそうなんだろう」みたいなおかわいそうムードが辺り一面に漂っていたのだった。
 今でこそありがたいことにかなり流暢にペラペラと話せることが多くなってきたものの、わたしの20代の頃というのは吃音が決して軽くはなかった。大学の先生で言語聴覚士の人に言わせれば「中程度ですね」とのことで、決してその頃は軽度ではなかったのだ。その言語聴覚士の先生は今までにいろいろな吃音の人の相談に乗ってきたのだろう。そして、いろいろな人を見てきたのだろう。そして、その経験を踏まえた上での中程度。しかし、中程度と言えども、自分の中では最重度みたいな感じがしていて(だって本当に声が出ないんだから)、毎日が重く苦しくまさに地獄のような日々だった。
 集会でわたしが披露した20代の頃の吃音のエピソードというのが、話すよりも筆談したほうが速いくらいだった、とか本当に声が出ない時が頻繁にあったとか、その頃の夢はマクドナルドで複雑な注文をするのが夢だったとか、まさに吃音がある人でなければ分からないようなエピソードばかり。それが吃音ではない彼らにとっては凄まじい不幸、あるいは同情して苦しそうな顔をすべき話として映ったのだろう。でも、わたしはそこで暗い顔をして沈み込んでほしくはなかった。ほのぼのとさわやかとさっぱりと「そうだったんですね」みたいな感じで軽く受け流してほしかったのだ。まぁ、それだけわたしにとって吃音というものが過去の出来事になりつつあるってことかもしれない(軽くなった今でもわたしはれっきとした吃音者だけれど)。
 わたしにとって吃音は苦しいものだったけれど、吃音そのものが苦しかったと言うよりは、それをネガティブにとらえて一大事として扱って心を沈ませていたことの方がむしろ苦しかったのだ。吃音といういわば現象に、つまりはうまく話せないというただそれだけの状態に自分自身がジャッジを下して「ダメだ、ダメだ。こんなんじゃダメだ」とエンドレスにひたすら自己否定を繰り返す。そして、自分の価値を否定する。その連続こそが、それをしてしまうことこそが苦しかったのだと言わねばならない。
 わたしはキリスト教的な同情する、ともに苦しむ心をそれを意味がないなどと否定するつもりはなくて、それは文化だとは思うのだけれど、たとえその場でわたしの話を聞いてそのことに心を痛めてくれたとしても何ら変わらないのだ。彼らが心を重くしてシュンとすれば、しさえすればわたしの吃音がさらにもっと軽くなったり、なくなって完治したりするわけではない。これって世界の貧困・飢餓問題に心を痛めるクリスチャンの人たちは多いけれど、実際に何もしないでお祈りするだけで終わりというあり方と似ているというか、つながる、あるいは関連するところが少しはあると思う。安達祐実がもう20年くらい前になるだろうか(もっと前か?)。「家なき子」というドラマに主演した時にその安達扮する確かすずという名前の女の子が言い放った強烈な一言がある。「同情するなら金をくれ」。うっ。きつい、きつすぎる言葉だ。たしかに同情するのはタダだ。でも、同情しない人もいる中でその人は関心を持って心を痛めてくれている。それをその一言で一蹴する。そうなったら世も末だよ、とは思いつつも、さきの集会の話に戻すと、彼らはわたしに同情してくれたけれど、それ以外のことは何もしてくれていないのだ。星さんの吃音の苦労にカンパを捧げようなどという話でもないのだ(ってそれもまたオーバーだけれど)。
 結局、吃音が不幸なのかどうかと言えば、それをどうとらえて解釈するかによる、としか言えないようにわたしは思う。たしかに吃音の人は最初の言葉が出しづらかったり、最初の音を何度も繰り返してしまったり、もっと症状が進んで一言も声が出なかったりと苦労はある。けれど、それが不幸なのかと言えばそんなことはない。それを不幸だととらえれば不幸になるし、どちらでもないととらえるのであればどちらでもないし、かえって吃音ゆえに自分はこんなことを人生において得ることができたとか、気付きが得られたということであればそれは反対に幸福だということなのだろう。それに吃音は自分のすべて(つまり100%)でもない。人それぞれその占める割合は違うけれども、吃音の人だって24時間365日、すべての瞬間に自分の吃音のことを考えているわけではない。それ以外のことだってやっぱり考えているし、逆に吃音のことだけを考え続けるなんてそもそも無理だ。
 もしかしたらだけれど、わたしに吃音が与えられているのは傲慢にならないように、っていう神様からのメッセージなのかもしれないなって思う時がある。棘を持っておきなさい、みたいなね。
 今も言葉が吃音で出なくてまごつくことはある。でも、それを知らない相手(初対面の人など)はゆっくり話す人なんだな、とか考えながら話す人なんだな、くらいにしか思っていないみたいだということが最近分かった。まぁ、そう言いながらも沈黙の時間が30秒、1分とかになれば、この人変な人だなとは思われるかもしれないけれどね(自分から話し出そうとしていてこの間は長いし一般的には不自然)。でもこちらだって好きで沈黙しているわけじゃないんだから悪いことをしているわけではないよね。それに吃音は話すのに時間がかかるから相手の時間を少しばかり多く奪ってしまうけれど、別に救急医療とかここでもたついていると何億円もの損害が出るとか人が死ぬとか、そういう話でもないしね。待っていてもらいましょう。足が不自由な人が相手に待っていてもらうように、ね。
 今のわたしの考えとしては、吃音は不便だけれど、それが不幸に直結はしないんじゃないかって思っているんだ。最後はそれをどうとらえるか。そこにかかっていると思うわけなんだな。

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