わたしたちはともすると、何かを手に入れること、獲得することばかりに目が行ってしまい、足し算以外の発想ができなくなる。どうすればより多くのことができるか。どうすればより多くのものを手に入れることができるか。たしかに、こうした足し算の発想も悪いものではなくて、人生に刺激を与えてくれるものだし、足すことが何もない人生というのも寂しいものではないかと思う。何も刺激がない人生というものは、おそらく倦怠感に覆われた無気力なものとなることだろう。
けれど、足し算ばかりではうまくいかないんだな、と最近わたしは気が付いた。人生には引き算も必要なんだ。これまでのわたしは足し算ばかりしてきたと思う。とにかく、プラス、プラス、プラスと足し続けなければ、つまり無限成長していかなければならないんだと思い込んでいた。
そんなわたしに神様から与えられた言葉(すべては神様からのギフトだと思う)が「手放す」という核心をついた言葉だったのだ。この言葉と出会ってしばらくした時、衝撃が段階的にじわじわやってきたことを今でも思い出す。手放す? というか手放していいんですか? いぶかしげに思ったわたしである。この言葉がキリスト教的な言葉ではなくて、異教的なものであったことも一つの要因かもしれない。いわば東洋的な、インド的な発想。そういうわけか、最初はこの言葉となじめなかったわたしである。しかし、だんだんとヨガのDVDに収録されている瞑想に従って瞑想をやっていくうちに、何となくだけれどその意味するところがわかってきたのだ。
わたしたちが何かの問題にぶつかって悩む時、解決法はいくつもあると思う。でも、そうした問題や悩みに共通して言えることは、そのことにその人が執着しているということなのだ。わたしはこのシンプルな原理は的を射ていると思う。怒りも、不満も、そうしたネガティブな感情も全部そうしたものに自分自身がしがみついているから、要するに執着しているから、とらわれているからそれらの感情に縛り付けられているのである。
それなら、ただシンプルに手放せばいいんじゃないか。そんな気がしてきたのだ。
キリスト教的にはこれらのネガティブな感情に対しては祈ることを薦めると思う。祈って、祈ってどこまでも祈って、神様に感情のすべてをさらけ出す。そして、その先に毒をすべて出し切ったすがすがしい自分がいる。神様に全部委ねる。任せる。気が付くと、自分の中であれほど渦巻いていた悪感情はどこかへ行ってしまっていて、残るのはすがすがしい気持ちだけ。祈り抜いた先に起こる奇跡と言ってもいいかもしれない。
一見、キリスト教の方法とこの異教的な「手放す」という方法は違うように見えるかもしれない。けれど、どちらもわたしには手放しているように見えるのだ。方法こそ違えど、どちらも悩みや悪感情を手放せているのである。だから、「お好きなほうで」と言いたいところなのだけれど、わたしの場合、この異教的な瞑想の手放す方法のほうが手っ取り早いのだ。両方やってみて、明らかに瞑想で手放す方がわたしには合っていて楽なのだ。クリスチャンのくせに祈って解決しないのかよ、と言われるかもしれないが、まぁ、向き不向きはいろいろある。クリスチャンが瞑想するのもメリットが大きいのであれば十分ありだと思う。
引き算の発想を得たことによって、わたしは自分自身が軽くなったような気がする。手放すという言葉を知って実践し始めたせいか心がより落ち着いてきたように思う。足し算ばかりだとどんどん体が重くなってくる。頭も重くなってくる。知識や物など、獲得した物で自分自身が圧迫されて、息苦しくなってくる。と言いながらも、何かわたしが大規模な断捨離をしたとかそういうことはないのだけれど、それでも瞑想するようになったことによって自由になってきた。瞑想というのは心の断捨離ではないかと思うのだ。自分の心の中にたまったいろいろな思いを整理して要らないものを手放す。その作業をしていると心地良くて頭がスーっと軽くなってくる。
必要なものまで手放してしまうのはやりすぎだと思うけど、必要最小限でいいんじゃないのっていう気もするのだ。まだわたしは知識の断捨離をするまでのレベルには到達していないかもしれないけれど、もう必要なものだけでいいかなっていう思いも浮かびつつある。前に通っていた教会の牧師が物忘れの激しい信徒さん(この人は礼拝に来ても出席者名簿に自分の名前が書けなかったし、荷物をどこに置いたかいつも忘れてしまって毎回探し回っている人だった。それからしばらくしたらその人は介護施設に入所したらしい。おそらく認知症だったのだろう)にこんなことを言っていたのを思い出す。「イエスさまのお名前だけ覚えていれば大丈夫ですよ」と。
だから、知識を求めて向上する心を持ちながらも、本当に自分にとって必要なことだけをインプットしていくくらいでいいんじゃないかって思うようになってきたんだ。別に歩く百科事典になれなくてもいい。ただ、しっかりと知りたいと思ったことは知っていく。そして、地道にコツコツと勉強して自分自身を高めていく。そして、要らないと思ったものは手放していく。そうすると洗練された人になっていくだろうな。自分が何かを知らないということも余裕を持って眺められるようになりたい。
手に入れつつ、手放していく。足し算ばかりではなく引き算も時にはしていきながら。洗練されたしなやかな人になりたい。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。