風邪をひいたり、病気になったりすると思うこと。それは健康がありがたいということである。普段、言うまでもなくわたしを含めた多くの人にとって、健康は当たり前のものでまさに空気みたいなもので、そのありがたさをほとんど感じることがない。しかし、いったん、それが失われるやいなや、それがどれだけの恵みであったかということに気付かされる。こうしたことはみんな分かってはいる。けれど、常日頃からこのことを自覚している人というのは、少数だと思うのだ。
どうしてこんなことを冒頭に書いたかと言えば、星が何か病気になったからだと思うのが自然だろう。けれど、そうではない。わたしはいたってピンピンしていて快調なのだ。じゃあ、どうして? 身近な人が怪我をしたからなのだ。
その怪我をされた人は教会でわたしがお世話になっている方で、ここ2、3年だろうか。一緒に教会の奉仕としてお掃除をやってくださっていた方なのだ。奉仕予定表通りに3ヶ月に1、2回ある奉仕のお掃除をその方とわたしはやっていた。わたしが掃除機をかける係で、彼女はトイレを掃除する係。役割分担はバッチリで、それは気持ちよくお掃除をしてきたんだ。そんな彼女が先日大怪我をしてしまった。自宅の台所で転倒したらしく、足を手術が必要なくらい激しく骨折してしまったのだ。そして、今入院しているとのこと。
そのことを牧師夫人から聞かされたわたしはあまりにも衝撃が大きすぎて、途中あたりからその話の内容が右から左へと流れてしまったくらいなのだ。驚きが大きいと、唖然としてその情報を受け入れるまでに時間がかかるものなのだ。言うまでもなく、それを現実のこととして受け入れるには少しばかり時間がかかった。現実感の欠如というか、何というか。あのSさんが。本当に? 本当なの? しかし、それは本当のことであって受け入れなければならない。その話を牧師夫人がわたしにしてくれたのは、6月の終わりにわたしとSさんがお掃除をする当番になっていたからだった、と回らない頭ながらもわたしは了解したのだった。そして、牧師夫人がわたしと一緒に少なくともその日の教会のお掃除は一緒にやってくれることになり、わたしは感謝の言葉を述べ、牧師夫人からの話は終わったのだった。
教会の礼拝後の交わりも終えて、自宅にやっとついて、食事も終えて一段落して、もう午後の1時頃になっていただろうか。わたしはSさんに電話することにした。牧師夫人からの話の中で「手をついて」というワードがでていたようだったので、もしかしたらSさんは両手とも使えないのかもしれない。だから、電話することもできないか、難しくて出てくれないかもしれない。それでも、彼女のことが心配だったわたしは電話してみたのだった。ダメもと。話ができるといいんだけどな、と思いつつかけた。15回くらいコールしただろうか。出てくれない。やっぱり電話に出られるような状況ではないのだろうか。まぁ、着信履歴は残るからわたしが電話をかけたということ、彼女のことを気に掛けているということは分かってもらえるだろう、と思いながらつながらない電話を切った。
それから15分くらい経った。彼女から電話がかかってきた。電話に出ると、彼女の声は想像通り浮かない感じだった(それは当たり前のことだ)。牧師夫人から話を聞いて驚いたことをわたしは彼女に伝えた。そんな彼女が何を言ったかというと、開口一番、教会の奉仕のお掃除ができなくなったことを申し訳ないとしきりに言うのだ。「好きで怪我したわけではないんですから」とわたしはフォローに回ったものの、律儀で責任感の強いしっかり者の彼女は「申し訳ない」と言う。そして、自分が大きな怪我をしていて大変だというのに、ほとんどかかりっきりでわたしのことを心配してくれて、逆にこちらが申し訳ないと思ってしまったくらいだったのだ。人間的に成熟している人というのは、こういう人のことを言うのだなと改めてわたしは彼女の人間性に打たれたのだった。
そして何だかんだSさんと話をしていたわたしである。わたしは彼女が70代ということもあって、いつかお掃除を一人でやらなければならなくなる日が来ることを覚悟していたことを彼女に伝えた。まさかこんなに早く彼女と一緒にお掃除ができなくなる日がやってくるとはわたし自身思ってもいなかったからだ。考えてみれば、永遠にわたしとSさんが教会のお掃除をしていけるなんてことはなかったのだ。いつかはそれが続けられなくなる終わりの日がやってくる。その日がやってきたんだ。彼女と一緒にお掃除をしてきた日々を少し感傷的になりながらも思い出してみると、それは素晴らしい日々だった。彼女は教会のために、おそらくわたしとペアを組む前からお掃除をしてきたのだと思う。それも何年も、もしかすると何十年も。そんな彼女にわたしは頭が上がらない。そして、彼女とわたしの関係がどうなっていくのかは分からないけれど、それでもわたしはわたしなりに彼女に関わっていけたらなと思っている。できる範囲で無理をせず、ぼちぼちとね。
Sさんの怪我を通して、わたしは健康のありがたさを感じた。健康って当たり前ではないんだな。歩けること、自宅で生活できること、当たり前のことが当たり前にできること。全部、当たり前のことではなくて恵みなんだ。本当、そう思う。
近いうちにSさんは手術をする。わたしはそれがうまくいきますように、そして、その後のリハビリもうまくいって、また歩けるようになりますように、って祈っているところなんだ。
わたしにできることと言ったら、Sさんに電話をすることと、祈ることくらいだけど、彼女の回復を本当願っている。
神様。Sさんをお守りください。主イエスのみ名によって祈ります。アーメン。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。