ぐだぐだ不調日記第3弾「赤が気になる」

 今日は調子が良くないからやっと「ぐだぐだ不調日記」が書ける。まさにこれこそ神の恵み。と冗談はそれくらいにして、しんどい。何がしんどいかって言うと、花瓶、いや過敏になっているのだ(変換ミスって面白いね。星は意図的に変換ミスを狙っているところが確信犯的で油断ならないところがあるけど)。
 ぐだぐだ不調日記初回のときに情報がいっぱい入ってくるみたいなことを書いたかと思うけど、今日もそんな感じなのだ。目に映るすべてのことがメッセージ♪(たしかユーミン)てな感じで、目に映ったことがやたらと鮮明にビンビン迫ってくるのだ。特に赤がやばい。赤という色はわたしに警告する色であって、特に赤がわたしに迫って圧倒してくるのだ。普段は全然気にならないのに、今はトランプの箱の赤いパッケージが気になって仕方がないし、手近にある『いやな気分よさようなら』の赤い文字が何やらわたしに「逃げろ~」(って何から?)って言っているような気がするし、なぜか普段はまったーく気にならない少女マンガの赤い背表紙の文字が別に不気味なわけではないんだけれど何かをわたしに伝えようとしてくるのだ。うーん、この赤が気になるのって一体何なんだろうね。自分でも謎だよ。誰か知っている人がいたら教えて~、てな感じの星なのである。ってまたまとまりのない文章連ねてるな。ってやっとここまでで570文字くらい。って、って、って。ってが大杉。いやいや多過ぎ。大杉漣が主演だった教誨師の高宮の記事、好評みたいで何よりです。ってここで大杉が出てくるところが何だか奇妙で不気味ですらあるよ。別にわたしの潜在意識に大杉があったとかそういうことじゃなくて、多過ぎって打とうとしたら大杉って変換されて一人ウケてただけなんだけど。うーん、変換ミスネタもこれくらいにしといた方がいいのかな。
 さぁ~って今日の出来事を振り返ってみよう。どうして不調になったのかな? 今日はパソコンもやってないぞ。思い当たることといったらコーヒーを2杯飲んだな。それも300mlを朝と昼に。それがまずかったのかもしれん。コーヒー、飲み過ぎると不調になるんだよな。それも、コーヒー飲んで歩くともう最悪なんだ。ってコーヒー飲んで歩いとる。いかん、いかん。調子が悪くなることしっかりやってるじゃん。これは当然の帰結だよ、星殿。調子が悪くなることやったらやっぱり調子が悪くなるものです。そうだな。そうだな。うんうん。そういうことはしないに限るな。
 今日の教訓。コーヒーは一日一杯くらいにしておこう。(300mlのやつを)
 しびれる~。今日の教訓しびれる。まさにロックだぜ。この一見シンプルな格言に深い深い人生の経験が哲学が凝縮されているのだ。コーヒーは一日一杯。うーむ、そうだな、そうだな。その通りだな。まさに大先生の哲学。星大先生の集大成とも呼べるこのありがたい格言。一言300円。300mlなだけにね。これを聞いた人はお金を払わなければなりません。って課金制?(笑)別にお金をふんだくろうとか悪いことは考えておりませんのでご安心を。でも、まぁ、この教訓にわたしと同じくしびれた方はこのブログで紹介している本をアマゾンで購入してくださいまし。って結局宣伝? いやいや、対価を求めているだけですよ。失敬な。
 ゼーハー、ゼーハー。これだけ書いているのにやっと1300文字くらい? だってさっきから思いついたことしか書いてないじゃないですか。いや、思いつかないことは書けないけど。そりゃそうだ。って寒い。寒いよ。今ので地球の温暖化を少しばかり平和的に食い止めたな。やったな星さん、負けるな星さん、頑張れ星さん。で、ぜーはー、ぜーはー、思想をほとばしらせていたらやっと1500文字超えた。わたしが息しているだけで地球の温暖化にはしっかりと貢献していると思うけれど、まぁ、生きているだけで良しとしてください。酸素を吸って二酸化炭素を出している平和な星です。いや、生きているだけでいろいろなものを消費してるから、二酸化炭素をそれはそれは大量に出してるんだけどね。これは先進国の病だよ。って、って、って文章が面白くない。「って」を使えば文章が面白くなると誤解している気のある星さんのこのブログに発展がありますように。どうか祝福をわたしのために祈ってください。ゴッドブレスを。うーん、月並みだな。面白くない。ここまで読んでつまらないからもうこのブログ読むのやめようと思われた読者の方、ここからが真骨頂の見せ所なんです。ここからがやっと見せ場なんです。と言いつつもこれで終わりなんだな。
「うそつき。」
 久しぶりにうそつきました。いかん、いかん。今日、いかんばかり言ってるけどいかんね。うそはつかないように。で、やっとこれから真骨頂が。見せ場が、腕の見せ所が、って終わりにしたいと思うんだな。実力の半分いや10分の1も出せていないけれど、それも不調のゆえ。ここからが真骨頂。でやっぱり終わるんだな。不完全燃焼。お粗末でした。

メンタルが豆腐のわたしと神様

 最近は比較的、平和な日々を送れているので誰かから批判されることはないのだけれど、それでも自分の意見が批判されるとグサっとくる。これはなぜだろうか、と考えてみると自分の意見が批判されるとわたしは自分という存在、つまりはわたしという人格までも批判されたように思ってしまうからのようなのだ。
 批判されるとまでいかなくても、自分がAだと思うと言ったときに、別の人がいやBだと思うと言っただけでもわたしの豆腐のメンタルは揺らいでつぶれそうになる。別にその人がわたしの意見を真っ向から否定して喰ってかかってくるわけではなくても、である。
 万事がこんな調子なので、わたしは誰かと議論することを好まない。議論は批判ではないよ、と誰かが言ってくれることだろう。もちろん分かっている。しかし、議論して意見を戦わせるだけでもわたしのメンタルは傷付きそれなりにダメージを受けてしまうのだ。
 以前、祖母が余命一ヶ月という宣告を受けたときに京都のおいしいお豆腐を注文したことがあった。それで、そのお豆腐なんだけど、玄関で宅配便のお兄さんがわたしに渡すときに「これはお豆腐なので注意して持ってくださいね」と言ったのだった。わたしのメンタルってこんな感じの取り扱い注意のお豆腐だから、お豆腐だと言って自分はもちろんまわりの人にも注意してもらう必要がある。大事に大事にこわれないようにしてもらう。しかし、そんなんじゃだめだよ。世間というものは荒波の疾風怒濤みたいなものだから、自分を鍛えないと、と言われようものなら、それもまた批判されたようなものだから、その忠告だけでもわたしは傷付く。「今日の星さん、いつにもましてじれったくて少しうざいね」と言われてしまいそうだ。でも、仕方がない。わたしにはこういう面だってあるのだ。
 わたしが厳しい批判をされて追い詰められるとどうなるかと言うと、単刀直入に言うなら死にたくなってしまうのだ。批判くらいで死ぬだなんて大袈裟だなと思われる方もいることだろう。が、大袈裟ではなくて、それどころかこれがありのままのわたしなのだ。自分が批判されると自分の価値が急落してしまう。そうなると、もう生きていても仕方がない、と人生に見切りをつけてしまうのだ。
 これだけデリケートでありながら、その一方で平気で人を批判するのが星である。たちが悪いとは自分でも重々承知している。しかし、これは自分に自信がないことの裏返しなのである。自分に自信がなくて価値がないと思いがちだからこそ、矛盾するように見えるかもしれないが平気で人を批判できるのだ。弱い犬ほどよく吠えるのである。
 だから、反社会的な人や問題行動を起こす人というのは容認できないけれど、彼らは傷付いた心を抱えているのだ。もしも自分の心が満たされていたら人や物を傷つけたり破壊するようなことはしないよ。だから、満たされていないんだ。と言ってわたしは彼らをかばうわけではないしかばうつもりでもないことは明言しておく。
 懲罰か保護か、というのは専門家でも意見が分かれるところで、厳罰化して厳しくすべきだという意見が社会からは時折聞こえてくるものの、そうではなくて保護して更正させることを重視する立場を取る人もいるのだ。
 そんなわけで、人から傷付けられることを極度におそれながらも、人を平気で傷付けてしまう困った星である。豆腐メンタル、どうにかしたいなぁ、と思う。どうしたらいいんだろう。自己肯定感を上げればいいのかな。おそらくそういうことなんだろう。自己肯定感が低いから物事がうまくいかないんだ。
 自己肯定感。それも本物の自己肯定感って一体どんなものなんだろう。わたしは何かができる人が価値ある人だというような教育ならびに家庭環境で育ってきた人間だから、安易に何かができるようになれば自己肯定感も上がるんじゃないかって思ってしまう。でも、どうやらそうではないらしいのだ。本物の自己肯定感とは何かができるとか、何かを持っているとかそういうことではないのだ。そうではなくて、何もできなくても、何もできなくなっても、何も持っていなくても、すべてを失ったとしても自分のことを価値ある存在だと思えるような、そんな自分への肯定感のことじゃないかと思うのだ。だから、これはなかなか、というか本当の強さなのだ。
 もしわたしがある日突然、まばたきしかできなくなったとしよう。手も足も動かせない。もちろん声を出して話すこともできない。そんな状況になったときに果たしてわたしはそれでも自分のことを価値ある存在だと思うことができるのだろうか。それでも揺らがない、自分は素晴らしい存在だという確信。それこそが本物の自己肯定感ではないかと思う。もちろん、これは極端な例だけれど、煎じ詰めるとこういうことじゃないかな。すべてを失って、何もできなくなったときにそれでも「アイムOK」と言えるかどうか。これだと思う。
 極限の状況まで追い詰められると、神様がきっと現れる。そして、その人に寄り添ってくださるんだ。だから、わたしはまだ本当の意味では神様を知らないのかもしれないと思ったりもする。毎週日曜日に教会へ行って神様を礼拝しているわたしだけれど、本当の、それもどんな逆境にもびくともしないそんな神様を見出してはいないんじゃないかって思うんだ。わたしには精神障害があるけれど、まだすべてを失ってはいない。だから、まだ自分の才能や能力などに頼っていることができる。それが全部だめになり、失った時、もしかしたら本当の神様が分かるのかもしれないな。
 不幸のどん底で神を見出すと言いたいところだけれど、どん底すぎると神様どころではなくなるというのがわたしの場合だった。でも、今そのどん底が一段落してあの時にも神様はわたしを背負ってくださっていたんだなということに気付けた。有名な「あしあと」の詩にもあるように神様はわたしを苦難の時に背負ってくださっていたんだ。その時のあしあとが一つしかないのは神様が背負ってくださっていたからなんだ。
 そんな神様がわたしのことを全力で肯定してくださっている。世界をすべて敵に回しても神様だけは全肯定してくださる。お前は素晴らしいんだ、と最大級の讃辞をわたしに与えてくださる。だったら別に誰かから批判されたっていいじゃないか。たかが人間に、それもわたしのことをろくに知りもしない人間に何が分かるって言うんだ。そんな人からの批判なんて受けるだけの価値はほとんどないよ。(もちろん的確な建設的な愛情あふれる批判というものもあるとは思うけど。)スルー、スルー。
 豆腐メンタルのわたしを神様はそれはそれはやさしく包んでくださる。そして、豆腐だからこそ守られることが必要で、だからこそ神様の庇護を必要とするのだ。豆腐も悪くないものだと開き直る星なのであった。豆腐万歳!!(ってそれは言い過ぎ?)

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